009.休日



悲しいとき。
憧れの鬼神が人になってしまったとき。
悲しいとき。
心酔していた君主と共に死ねなかったとき。
悲しいとき。
君主を殺した軍に実によく馴染んでいる自分に気がついたとき。



悲しいとき。
人んちの庭を歩いていたらなんだか生臭い水をぶっ掛けられたとき。



「張遼?!」

「お邪魔致す、夏候惇殿。」

夏候惇の部屋にずぶ濡れの客がやってきた。
外は春にしては気温が高めの良い天気。湿気って何だっけ、とか言いそうな。
風も強くないので家人は掃除をするとか言っていた。
にもかかわらず、夏候惇の部屋の部屋の前には、いつも通り隙無く厚着はしているがマントの端からしずくを滴らせる張遼がいた。

「訪問していきなり失礼かとは思うが、湯と着替えをいただけないか。」

「いったいどう…、ッ?!」

無表情な(それでも幾分沈んで見える)顔して部屋には入って来ない張遼へ夏候惇のほうから近寄ったが、
その妙なにおいに顔をしかめた。
我慢できない異臭ではないが、なんか有り得ないニオイ。
…生臭いような。

「あいや、近寄られますな。」

張遼が手で制す。
汚れるから、と。

「先ほど貴方の家の庭を歩いていたら、そこの角の所で二階から水が振ってきたのだ。それはもう、ざばーっと。」

「そこの角の二階…?」

入り口から身を乗り出して張遼が指差した先を見る。
ああ、確かあそこの部屋には。

「…金魚の甕があったな…。」

溜息。
なるほどそれは、小学校の時飼っていたザリガニのニオイ。
(いや張遼も夏候惇も小学校など行っていないが、ていうかショウガッコウって何だ。)
よく見れば水は緑っぽいし、髪に水草が張り付いている。

「横着して二階から水捨てたんだな…。…すまん。」

「…いえ。」

「…それにしても…、」

それにしても。
今日たまたま天気が良くて。たまたま金魚の水換えをして。たまたま二階から水を捨てて。
たまたまその時そこを通りかかる。
なんと間の悪い。

「ぶっ…はははははは!!」

「…笑ってくれるな…。」

腰を折って爆笑する男と。
憮然として額に張り付く前髪をかき分ける男。
人の失態を見て大笑いする男には腹が立つが、この間抜け具合では笑われても仕方がないかとも思うので、魂抜けそうな溜息。








「…大体、貴方の家の者のせいで汚れたというのに貴方に馬鹿笑いされるとは納得いかん。」

夏候惇はすぐに人を呼び湯と着替えを用意させた。
水を捨てた犯人は、ずぶ濡れの鬼神を前にして地に頭をこすり付けて謝っていたので、そこで赦してやった。
温かい湯をかぶって気が緩んだのか、それでも張遼は湯を頭からかぶりながらぶつぶつと文句を言っている。
一度赦したことについていつまでも不平を言うのは潔くないことであるから、礼儀の男張遼は普段なら二度と口にしない。
この後その家人と顔を合わせたとしても気にする素振など微塵も見せることはないだろう。
実際、張遼は水をかけた男に対して怒っているのではなく、失態を見せた恥ずかしさでバツが悪いだけなのだ。
張遼が私事で愚痴を漏らすのは自分の前でだけだ、気を許した証拠だ、という自負が夏候惇にはある。
夏候惇は自分の口元が緩むのを感じていた。

要するに、彼は甘えているのだ。

「すまんすまん。そう怒るな。」

「…貴方のニヤケ顔を見ていたら怒る気も失せた。馬鹿らしい。いや馬鹿なのは汚水をかぶった私か。」

酷い言い様だな、と夏候惇は苦笑する。

「そう腐るなよ。」

優しい夏候惇の声に、張遼はつんと横を向いた。

「…折角、鎧姿ではなく下ろしたての着物で参ったというのに。」

明後日の方向を向いて心底悔しそうに張遼が呟く。
夏候惇の息が詰まった。

「…それは、俺の聞き間違いと都合のいい解釈でなければ、俺に会うためにおめかしして来てくれたということか?」

「・・・。」

沈黙。
否定でなく。
きっと、深い考えではないのだろうけど、夏候惇の言葉を否定しない。

「張遼ッ…」

感極まったのでその肩をつかもうとしたら、

「私に触れたらナタで八十八の肉片に刻む。」

氷点下の声でそう言われたので。
乾いた布を差し出しつつその手に口付けた。





衣服も改まり。
生臭い匂いもどうにか消されて、改めて卓に向かい合って座り冷たい茶など出されて。
やれやれ、と二人して長い溜息をついた。

「ところで俺に何か用があったのか?」

「別に用はないが。時間が空いたので来てみただけだ。」

悪びれもせずにそう答える張遼。

「…そうか。」

休むことも忘れ魏に奉仕していないと魂の折れそうだった張遼は、もうそこにはいなかった。
休息を思い出し、同僚と会話を楽しむことを思い出し、彼は安定した人間になった。
そう変化させたのは自分だという自負がある。
じゃあその見返りを頂いて良いのかな、とか思う自分の下心にも気付いている。

「…ではのんびりしていけ。俺も今日は特に予定が無い。」

それは良かった、と張遼が目を細めた。
目つきの悪いので有名な張遼だったが、笑うと途端に表情が優しくなる。
それを知っている者はまだ数少ないが、これからすぐに増えていくだろう。
彼が鬼神であるなどとは、敵だけが思っていればいいことだ。
その笑顔が周知のものになることに、軽く将来の独占欲を感じる。
それもいいさ、と一人ごちた。



そうして。
濃い目に入れた冷茶の香りを、一口楽しんだとき。

「張遼どのーッ!!」

有り得ない声が聞こえた。


「…何今の。」

言いながら張遼がガタガタと震え出す。
持った湯のみからお茶がこぼれた。

「お、おい張りょ…」

「だってここは夏候惇殿のお屋敷で声が白頭巾で私が張遼ッ!!」

耳と口からプシューッと煙が出てきそうな混乱具合で泣きそうな声。
一瞬前までここにいた優雅な麗人はどこに。
絶望の淵からの使者の声は何も知らずに近づいてくる。

「張遼どのーっ!どこでござるかーッ?!おうちの人に夏候惇殿のところへ出かけたと聞いたでござるよーっ!」

おうちの人ってなんなの、とか思ってあっけに取られている夏候惇を他所に、張遼は卓に膝をぶつける勢いで
立ちあがると(実際ぶつかった衝撃と音があったが本人はそんなことに気付いていないらしい)、

「かかか夏候惇殿!私は口の軽い家人を逆さに吊るして金魚の水をぶっかけるという大宇宙からの壮大かつ絶妙な
 勅命をたった今授かったので、簪(かんざし)を売って金魚を買ってウチに帰ります!お茶ご馳走様でした!」

超高速で謎な宣言をして張遼は入り口と真逆にある窓に片足をかけ、夏候惇に向かって「じゃっ、」と片手を上げると
その窓から飛び出し後ろも振り返らずに駆けて行った。
今の張遼なら赤兎と徒競走が出来るかもしれない。

…大宇宙って。簪って。

呆然と彼が消えていった窓を眺め、夏候惇は片手を上げた張遼の残像をそこに30秒間見た。
逆方向から家人に居場所を教えてもらって礼を言う無邪気に野太い声が聞こえる。

張遼じゃなくとも、目の奥がツンとした。





悲しいとき。
頑なな降将がやっと何気なく我が邸宅を訪れ、談笑してくれるまでになったというのに、
某原因で挨拶もそこそこに逃げ出して行ってしまったとき。
悲しいとき。
とっておきの美人がウチに来て風呂まで入ったのに、
某原因で茶を飲むだけでいなくなってしまったとき。





とりあえず。
夏候惇は呼びもしないのに人の家に来てまず客の名前を呼ぶ無礼者をシメようと思った。

















*後日談。*

悲しいとき。

貸した衣を返しに来てくれるだろうと期待していた夏候惇は、
張遼の家人(ちょっと金魚くさい)が包みと礼と共に、
『当分お邪魔致しません』という伝言を届けに来て、

さすがにちょっとめそっとした。




実は出オチなSS。
今回のポイント
・惇兄のためにおめかしする張遼
だけのはずだったのにどこからどうこんなに膨らんだのか。
実際おめかしした状態は一秒も出現してないし。

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