012.氷 張遼には素晴らしく長い尾がある。 尾の先ではいつも音のない炎が燃えていて、それは周囲の雪をちょっとも溶かしはしないのに、集まってくる凍えた動物たちにしっかりとした温かさを与えることができる。 張遼はいつもは高い雪山に住んでいるけれど、時々気まぐれに麓の森まで下りてきて、力弱い小さな動物たちと触れ合った。 彼はほとんど豹のような姿をしていて、氷のような色をした瞳は全てのものを射竦める眼力を持っていたけれど、彼が何かを口にすることも、いたずらにその力を見せびらかすことも絶対に無かったので、小さな動物たちも彼を恐れずただその温かさをもらいに集まった。また彼の前ではどんな動物も争いを起こさなかった。 陽に当たると真珠のように淡く輝く極上の毛並みとその神の炎は誰も彼も惹きつけた。 張遼を捕まえようと、多くの人間がやってきた。 けれどそれに成功した者は一人もいない。 人が主戦力にするのはそれぞれの契約する使役獣だけれど、人が連れてきた使役獣はその本性に従ってことごとく張遼の前に膝を折り、戦いにもならなかった。 したがって人は己の力だけで張遼に追わねばならず、それには人は非力で、のろま過ぎた。 ゆえに人は張遼を神獣と呼び、いつしか手の届かぬものとして距離を置いた。 張遼はそれにとても満足していたというのに。 ある日ある男がやってきた。 それはずいぶん久しぶりにやって来た捕縛者だった。 森の終点で馬をつないだその男は、雪原を荒々しい足取りで歩いてくる。視界をさえぎるもののない白い世界で、おそらくまずは張遼の存在確認でもとりあえず目的としていたのだろう。背に大振りの弓を携えただけで辺りを見回しながら堂々と歩いてくる。 張遼はすぐそばの山の頂からそれを見下ろしていた。山ふたつ向こうまで見渡せる張遼の視力をもってすれば、人には遥か彼方とも思える山下にいる男とてその顔すら認識するのは難しくない。 立派な体格の男で、口をへの字に結んで、整ってはいるがいかつい顔をしていた。 たいした興味もなく眺めていただけだったのだ。 冬には珍しくとてもよく晴れた日だった。 雪山を渡る重い音のする風以外は、その男の足音しかない世界。 見渡す限りの白い雪が、強い太陽の光を反射して網膜を焼かんばかりに輝いていた。 そんな光の中で、そんな人間には不可視のはずの距離で、だから、気のせいだと思ったのだ。 男と目があった、なんてことは。 気のせいだと思った。 けれど首の後ろの毛が何かを感じてぞわりと逆立った。丸い耳がぴんと立った。自分自身にも理屈の分からない、張遼の獣の本能がただならぬことが起こったのだと告げていた。 そして、男は笑ったのだ。 張遼よりも獣じみた、闘気そのもののような笑みだった。 その瞬間、男が急に太陽ほども輝いて見えて、張遼はこらえるように何度も瞬きをした。 あのように無邪気に、そして獰猛に笑う生き物を、張遼は見たことがなかった。 男は間もなく何事もなかったかのように元来た方へと戻っていく。 もとより、人間の目ではお互い豆粒ほどにしか見えない距離だ。目があったのは気のせいかもしれない。 何かの予感に張遼の精神はひどく乱れた。 それが吉兆ゆえか凶兆ゆえか、張遼にはついにわからなかった。 それから、ひと月も経つ。 男は現れたその晩から、昼夜構わず張遼の捕縛に乗り出した。人間にしては恐るべき気力と体力で張遼を追いかけまわし、時には罠を張り、時にはヤケになって果たし合いを申し込んだりしたのだが、張遼にはいささかも堪えなかった。 ただ興味深くはあったので、張遼は男の手が届かないぎりぎりそばまで近寄ってはひらりと身をかわしたので、男にこの性悪が、と怒鳴られたりもした。 男は、張遼の興味を引いて余りあるほど特異な人間だった。 並みの人間よりずば抜けて素早く力が強く、体も大きくて素晴らしく勘が良かった。 何やらそれなりの蓄えは持参してきたようだが、一度も里へ下りずに中腹にある森の中で一人で野営している。 よそから来た人間は大抵環境についていけずに倒れてしまうほどの高い山だが、体調を損なう様子もなく、遭難もしない。 もしかしてよほど知恵のある者かと思えば罠はひどく稚拙で、やはりただ野生的なのかと納得したりもした。 大型肉食獣のような男で、もしかしたら普段は満腹時くらいはおおらかなのかもしれないが、今は張遼を捕まえるという目的のために常にギラギラしていて、おかげで森の動物たちがずっと落ち着かない。 だが、いくら並外れて丈夫とはいえ、ひと月も動物さえ凍える雪山で野営続きとあっては、やはり限界がくるのだ。 体力と、気力と、体温。その全てが足りなくなった時、生き物は死ぬ。 そう、今のように。 死ぬのか、と張遼は思った。 男は太い松の木に背をもたれるようにして寄りかかり、四肢を投げ出してわずかに呼吸をしている。 あたりはすでに薄暗い。このままひと晩過ごせば永遠に体温が戻ることはないだろう。 神獣である張遼には死は遠いものだ。殺されれば死ぬだろうが、疲労や飢えはおそらく張遼の命を削らない。そして張遼を害することのできるものなど滅多にいない。 あれほど張遼の凍った心を揺さぶったものがこんなにも呆気なく消えていく。 張遼はなんだか悔しかった。 自分の予感を外されるような気がして。いや、予感ではないかもしれない。自分は期待していたのかもしれない。この男が生に飽いた己に何かをもたらしてくれるのではないかと。 淡い失望と落胆が張遼にのしかかっていた。そのような気分になることすら久方振りで、張遼は自分を持て余していた。 張遼は全く獣の動きで男に近寄った。 つま先から、その体の匂いを嗅いでいく。鼻を寄せても男はぴくりともしなかった。 やはり死ぬのか、と思った。 男がゆっくりと目を開いた。 その力を使うだけで力尽きるのではないかと思った。 至近距離で視線が絡む。 男は驚いたようだった。いくらなんでも接近には気付いていただろうに。何に驚いたのだろう。 そう思っていると、薪がはぜるように男の瞳に強い生気が蘇った。 口の端が凶悪につり上がり、犬歯までが剥き出しになる。 張遼は逃げなければ、と思った。逃げるために四肢に力を溜める。後方に跳びすさる体勢は瞬時に出来上がった。 だが体が動かなかった。 頭の命令が体に届かない。 男が笑う。口を開く。 「捕まえたぞ。」 食われる! 捕まる、ではなく食われる、と思った。 張遼が跨いでいた男の脚が振り上がる。 動作をきっかけに呪縛が解け後方に跳ねたが間に合わない。張遼の下顎を男のつま先が蹴り上げた。 脳を揺さぶられ張遼は体勢を立て直すのに失敗して倒れ込む。 大型肉食獣によく似た体を持つ張遼の体重を考えれば、人間がその体を蹴り飛ばすなど有り得ない。 だが男は後方に跳ぶ張遼の力自身を利用してそれをやってのけた。 今にも死にそうだった男がだ。 やられた。 すぐに身を起こすと二・三歩よろけたもののそれだけで持ち直し再び駆け出そうとした。だがその僅かな間は致命的だった。 男の大きな手が張遼の喉元に食い込む。手は握り潰さんばかりの力で張遼を締め上げる。張遼は爪を剥き出し一度だけ反撃を繰り出した。 締め上げる腕を両方の前脚で引っ掻くように振り下ろす。 男の腕などそれで肉は削げ骨は砕けるはずだった。 だがまたしても張遼の体は言うことを聞かなかった。力が入らない。本気で攻撃できない。爪は肉を多少抉っただけだった。 それでも十分重傷なはずだが、男の手は揺るがない。 酸欠で気が遠くなる。 男はもう片方の手で張遼に頭から大きな袋をかぶせた。 袋の中はなんだかとても嫌なにおいがする。 手を離された張遼は逃げ出そうと暴れる。だが一瞬遅く袋の口は縛り上げられた。 男は張遼を担いで立ち上がる。 「ふはははは!ついに捕まえたぞ!この俺が!」 暴れ続ける張遼を観念しろ、と袋の外から殴ると男は張遼を担いだまま馬へ向かってほとんど突進する。 鞍に跨り張遼を懐に抱え直すと野営の荷物などひとつも持たずに馬の腹を蹴った。 馬は素晴らしい速度で駆け出した。 袋の中につけられていた強烈なにおいに気を遠くしかけながら、張遼は暴れるのを止めていた。 男の言葉に従ったわけではない。 張遼は自分を待ち受けている運命を感じていた。 この先で何かが自分を待っている。 そして、とっさのところで自分を拘束したもの。 その正体を見極めてやろう、と、張遼は思ったのだ。 |