013.月 不意に腕の中の温もりが消えていることに気付き目を開けると、まだ朝は遠く、開け放たれた窓からは黒い空と明滅する星が見え、房の中は大きな下弦の半月の青白い光で満たされていた。 視界の中の卓子も椅子も月明かりに浮かび上がって、自分のいる寝台だけが天蓋で暗い。 寝る前に脱いだ張遼の服が椅子にかかったままになっている。 裸で外出する訳もないから、自分の家に帰ったのでは無いだろう。 眠気が多分に残る緩慢な動きで首を巡らせ、どこに行ったのかと本人の姿を探す。 さして離れていない場所にその姿はあった。 お前は美しい。 前にそういう話になったことがある。 張遼に向かって言ったのだが、隣りで酒を飲んでいた淵は大爆笑した。 好きすぎて目の前に紗でもかかるようになったか惇兄、と。 美しいなんて言葉は、女か小姓に向ける言葉だと。 張遼も「褒められて悪い気はしないが、」と曖昧にはしたが結局のところ淵に賛成したのだと思う。 では、今目の前にある張遼の姿をなんと表現すれば良いのだろう。 張遼は窓の片側に身を寄せ、もたれ掛かりながら腕など組んでのんびりと月を見上げている。 誰の目に触れることも無いと思っているのだろう、衣一枚身にまとっていなくともその態度は全くの自然で、悠然としていた。 日に焼けぬ真白い裸身が青白く輝き、薄闇に浮かび上がっている。 今でなくとも常日頃から整った顔だと思っている横顔は相変わらず丸みなど削ぎ落としたかのように鋭く、言わずもがな。 魏軍騎兵で最強だと言われているが、白兵としても無論抜きん出た張遼の体に無駄は一切無い。馬に乗る分、僅かな余計の重みも排除しようと作り上げた体は、同じ戦士とはいえ攻撃力を上げるため重量を増やそうとする夏候惇や徐晃よりも更に脂肪が少ない。ゆえに一際深く陰影が刻まれている。 首から肩にかけて。二の腕。胸。八つに割れた腹。体側から、腰。すらりと伸びた長めの脚。力強く隆起し緩やかに窪み、瑞々しさを持って張っている。 飾りではない筋肉、戦うための肉体。 なのに今は戦場での燃え滾る殺気は欠片も無く、ただ穏やかにそこにあるその体は、束の間の奇跡のように思えた。 まるで欧州の、大理石で出来た神の像のようだと思った。 あちらの人間が「神」とやらの姿を人間になぞらえて作る理由がわかった気がした。 そんなことを思いながら、誰に止められることもなく吸い寄せられるように、陶然と彼を眺めていた。 視線を感じ、ふと振り返ると、腕を立てて枕にし横寝でこちらを見ている夏候惇と目が合った。 寝台を抜け出した時は深く眠っていたのに、いつの間に目を開けたのだろう、と思いながら笑む。 その笑みがまた青白く幻想的なのがいけない。 「…起きて、」 「…やっぱりお前は月の精だったんだな…。」 「…は?」 空気がみしり、と音を立てたような気さえ起こる突飛な謎言葉。 思わず聞き返したが本気で言っているなら続きを聞きたくない。 しかし委細構わず夏候惇はたらたらと言葉を続ける。 「月の都に住んでいて、天の羽衣をまとって舞を舞う、月の精なのだな。」 「…寝ぼけていらっしゃるな。」 眠たげな口ぶりが怪しい。 脳でも沸いたか、とは言わなかったのは恋人に対する特別な思いやりだ。 上掛けに顔まで埋めて差し上げよう、と歩み出せば。 「…とでも言いたいくらい美しい。」 打って変わって確たる口調で隻眼の恋人は告げた。 思わず立ち止まり、苦笑する。 「何を戯れを。」 「大分本気だ。夢うつつで見てしまうと信じるぞ。」 張遼は肩をすくめた。 馬鹿にしているのではなく、本当に有り得ないことだと思っている。 いつだって自分を過小評価する男だ。 本心で言っているのに伝わらないことは残念だが、重ねて強く主張しようとは思わない。 張遼の美しさは自分だけが知っていれば良い。 「天が恋しくて見上げていたか。それとももうじき俺を捨てて月に帰ってしまうというのか。」 芝居がかった口調と手振りでふざける。 張遼は数拍の間の後、悪戯めいた声で答えた。 「…そうですな、私を抱く貴方の手があまりに熱いので火傷をせぬように月光で身を冷やしておりました。」 お?と夏候惇が珍しげに瞬く。 言いながら張遼は胸元に片手を軽く当て、芝居じみた仕草で一歩一歩近付いていく。 「大地の美しさに惹かれ、月から降りて来て早や幾星霜、大地の精霊は溶岩のごとく熱き腕(かいな)で我が身を大いなる懐に抱きとめ決して離されませぬ。無骨で窮屈と思っていたのにこの体はいつの間にやらそれが心地良くなってしまいました。よってこれはもう月へは帰られぬと嘆き、懐かしき光をこの身に浴びて熱ばかり湧き上がるこの身を冷ましていたところ。」 ぎし、と寝台が鳴る。 横座りに腰掛け手をつき顔を近づける。 「しかし冷めれば再び貴方の熱が恋しくなりました。」 囁き、目を閉じ、唇を奪う。 数秒絡んで口が離れたあとは、視線が至近距離で絡み合う。 先に瞳を閉じたのは夏候惇のほうだった。 「………参った。」 ぷはーーと息を吐いて仰向けに脱力する。 月の精だのと変なことを言い出したのは自分の方だが、まさか同じように返されるとは考えなかった。 俺、おおいなる大地の精? なんてものに例えてくれたのだせめて戦神とか言ってくれた方が馴染みがあるものを。 考えてみれば語彙も表現力も張遼の方が上なのだから分の悪い勝負だったのだけれど。いやまて、勝負だったのかこれ? 「…こちらとて恥ずかしくて死にそうです…。」 張遼も夏候惇の胸の上に額を預けた。 嘘を言ったつもりは毛頭ないが、普段密かに思っていることを告白するのも恥ずかしいというのに、誇張して装飾して言うなど、2分前の自分が信じられない。 芸術品のような存在が人間となって自分に愛を囁いてくれたことに、夏候惇は恥ずかしさを感じると共にじんわり感動していた。 ああ、これは俺のものなんだなぁ。 急に抱きしめたくなって腕を伸ばすと張遼は素直に身を寄せてくる。 ただまだ恥ずかしがって顔は上げない。 ぎゅっ、と腕に力を込めたが身動きしただけで逃げられはしなかった。 「…水を飲みに行っただけだですぞ?…素っ裸で。」 誰も見ていないと思ったから衣も引っ掛けず。 別に、浪漫ごとでも何も無いんです。 私は貴方の腕に抱かれているただの人間です。 そう小声で状況説明を試みる。 夏候惇は目を瞑ったまま小さく笑って、 「お前がただの人間だろうと実は月の精だろうと、俺の腕に抱かれているならそれでいい。」 そう言って裸身を引き寄せ強く抱きしめた。 張遼はいよいよもって羞恥で死にそうな思いで、 いっそ早く眠りにつこうと努力した。 |