037.唇 深夜の埠頭に、ダブンッと重たい水音が僅かに響いた。 軽トラの荷台にはドラム缶を蹴り転がした男が二人、その横にはスーツ姿の男が二人。 ひとりは闇色のベンツのボンネットに腰掛け、煙草をくゆらせている。 カタの付いた三人は次の指示を待ち無言で煙草の男を見つめた。 片目の男は、ゆっくりと煙を吐き出した。 「…張遼には、言うなよ。」 三人は無言で頷いた。 我らが若き組長は裏切り者を何よりも嫌うことを知っている。 例えそれが本人には名前も定かではない下っ端構成員であろうと。 最近入った下っ端が、実は他の組からの埋伏の鉄砲玉であることを知った組員が密かに夏候惇に知らせ、すぐさま定番の「ドラム缶とコンクリートが少し」必要になったのだ。 張遼は鉄砲玉が目の前に飛び出してくることはそれほど気にしない。 自身の命にそれほど重きを置いておらず、また自分自身と護衛の腕には自信を持っているからだ。 けれど先の組壊滅の危機事件以来、裏切り行為には付加なく神経質だ。 別に周りに当り散らすわけでも不安定になるわけでもない。 だが夏候惇の目の前で、夏候惇が捕まえてきた裏切り者を無表情に無言で素手のまま再起不能にしたことがある。 確かに格闘技の覚えもあり前組長の手の中で一番の戦力だったが、普段は冷静で自分の手でなど虫も殺さぬような男が、だ。 そんな張遼を憂い、余計なことは未然に始末してやろうと思う男達が、この場に四人いる。 三人は夏候惇よりも長く張遼に従っており、先の事件の際も組から離れなかった者達だ。 今更彼のために手を汚すことに躊躇いはない。 裏入りも念頭に、無い。 夏候惇も頷くと、手を振り無言で散れと合図し立ち上がる。 もう一人のスーツ姿が夏候惇の乗る後部座席のドアを開閉し、左側の運転席に着く。 軽トラの荷台の上にいたチンピラ風の男達は、台から飛び降りると台を閉めて座席に乗り込む。 二台の車はそのまま静かに別方向へと流れていった。 マンションの玄関のオートロックの扉を解除し、ひとりでエレベーターに乗り込む。 組の表会社で運営している高級マンションで、二戸だけの最上階を張遼と夏候惇でそれぞれ使っている。 …ということになっているがほとんど二人は同棲しているので大抵リビングルームもベッドルームも片側しか使われていない。 知っているのは雇われている年配の清掃婦一人だけだ。 主に使っている張遼名義のほうの玄関を開け、一度中に入ったが張遼がいないので出て自分の家の玄関を開ける。 靴があり、リビングから僅かな光が漏れていた。 同時に、鬼気迫る音楽と外国語で泣き叫ぶ女の声が聞こえてくる。 何か映画でも見ているのだろうと推測。 こちらのリビングにはホームシアターが備え付けられていて、起動回数は多くないがこちらの家はもっぱら映画館として使われている。 ドアを開け中に入ると画面で女がグロテスクなバケモノに銃を乱射していた。 「帰宅するなりスプラッタかよ。」 いささかうんざりした調子で声をかけると張遼は上半身をねじってソファから振り返った。 遅かったな、とは言わず、不機嫌気味だ。 「…最悪のタイミングで帰ってくるな、お前は。」 「ああ?」 「あと十五分遅く帰ってくればいいものを。 ホラーなんか効力一回きりだぞ。クライマックスで現実に引き戻すな。」 憮然とスクリーンに向き直る。 ソファに深く座り、だらりと腕を横にそのまま下ろし、首を傾けだらしなく足を開いているその様は中々に行儀が良く、リラックスしているんだなぁと思った。 「…お前ホラーは外国産が好きだよな。」 再び話しかけると張遼は数拍の間ののち諦めたように再び振り返った。 プライベートにおいて、張遼が夏候惇を無視したことは一度もない。 「最近の邦画のホラーは前振りが長くて山場が無くて怖くないから嫌いだ。」 一息に言い切って夏候惇をじっと見つめている。 散々だな、と苦笑いしながら上着を脱ぎネクタイを外す。そのまま椅子にでもかけておけば掃除婦がまとめてクリーニングに出してくれ、クローゼットにしまってくれる。 シャツのボタンを上からいくつか外して張遼の隣に座る。 肩に腕を回して引き寄せても嫌がられなかった。思ったほど機嫌は悪くないのかもしれない。 「…遅かったな?」 すぐ側で張遼が言う。 疑問系だったがようやく普通の会話に辿り着いた。 「何してたんだ?」 夏候惇はにっこり笑って答える。 「お仕事。」 「…仕事?何かあったのか?」 「いいや。何も無え。」 上機嫌に額にキスする夏候惇を止めはせず、張遼は顔に疑問符を浮かべている。 「…よくわからんが。…酒か女か金絡みか?」 「ひでぇな。俺が働くのはいつだってお前のためだけだぞ?」 特別傷付いた風も無く、鼻を摺り寄せる。 張遼が不思議に思うのも当然だ、お互いのスケジュールはお互いほとんど把握している。 とは言っても、突然何かが起きたり(曹操に呼び出されたり)するのもよくあることなので、お互い突き詰めて追求はしない。 特に張遼はあまり熱心にそれをしない。 それが少し寂しいといえば寂しい。 ふうん?と張遼が呟く。 夏候惇はその唇を舐めた。 唇は、罪の味がする。 この唇を味わうために幾人もの命を躊躇なく手にかけた。 もともと殺人に大した罪悪感はない。 それが彼を抱く度に罪を感じる気がする。殺した相手が思い浮かぶわけじゃない。 ただなにか圧力のようなものを感じる。 背徳感かもしれない。 男として惚れた男を、人として惚れた人間を、ましてや組長という至高の存在をただの女にするように組み敷き征服する。それは獣のように興奮する。 だからいつも彼を抱く時は、玉体を扱うように恭しくなるか、聖なるものに手をかける悪魔のように凶暴で下卑た感情に支配される。それはひどく気持ちがいい。 たとえば。 今日あの場に居合わせた残りの三人。自分と同じくらい張遼を敬愛し、同じくらい命を懸けてもいいと思っているかもしれない。けれどあの三人は決して張遼を抱くことは出来ない。いや、抱くなんて、思いつきもしないだろう。張遼が「手に入る」存在だと、同時に誰かのものだと知った時に彼らがどのような思いに駆られるかは夏候惇には容易に想像がつく。「自分」を「誰か」に置き換えてみればいいのだ。馬鹿な妄想だというのに腹の底が焦げそうなほどの嫉妬に駆られる。すぐにでも相手をぶち殺して自分の下で喘がせたい。 だが彼らはそれに気がつくこともないのだ。 張遼が腕の中で身をよじる。自分の下で張遼が女になる。そのことを想像すらしない。 なんと愚かで残念なことだろう! それが出来るのはこの世の中で、この夏候惇ただ一人なのだ! それを思うたび夏候惇は大声で笑い出したくなった。 自分の中にこれほど黒い感情があるとは思っていなかった。こんなにも何かのために全てを潰しても構わないと思うほど執着するとは思ったこともなかった。 金にも、権力にも、身を滅ぼしてもいいほどの魅力を感じない。元からそれらに満ちて育ったからだろうか。 何かが足りないと思ったこともない。個人的な何かを求めたこともない。 それが、彼だけは。 ああ、とにかく、そういうことなんだ。 「罪」というものを意識させるほど、それほど、彼の唇は甘いのだ。 「俺はいつだって、お前と共に生きるためにならどんなことでもやってやる。」 何かあったのだな、と張遼は思った。 夏候惇は非常にわかりやすいので態度で大体のことはわかってしまう。だから問いただしたりはしないことにしている。 彼が何もない、と言うならそれは張遼が知る必要のないことなのだろう。 彼には全幅の信頼を寄せることにしているから。彼に裏切られた時はもう全てを諦めることにしようと思っている。もう一度だけ、人を愛そうと思ったのだ。彼が駄目なら、もう何にも期待などできないはしない。何の未練もない。この世は、戦う意味も無い。 いつの間にか画面の中の化け物は殲滅され、ぼろぼろのヒロインが頭上に広がる青空を見上げていた。彼女は戦いに勝って、生き残ったのだ。めでたい。よくがんばった。 張遼はいい気分で自分を押し倒そうとする夏候惇の首に甘く腕を絡めた。 「…俺はお前のそういう生きることに貪欲なところが好きだよ。」 |