088.蜜月








雪が、降り積もっている。

しんと静まり返って、耳が痛いほどに静かだ。

重い重い目蓋を持ち上げてみれば、目に入るのは黒白の二色、空と枝と雪ばかりだった。

体の背面全てがひりつくほどに冷たい。
それでようやく自分は雪の上に寝ているのだなと分かる。

だがなぜ、とは思ったが体が全く動かなかった。
指先だけでも動くまいかと思うが、冷えすぎて自分に指という部位がついているのか判らぬほどに感覚がない。

今まで眠っていたはずなのにまだまだ眠たくて、ああ、自分はこのまま凍死するのだろうかと思った。

死への恐怖も、思考の感覚まで麻痺しているのかほとんど感じない。

漠然と、まずいな、と思った。
帰らなければならないのに。いなくなる訳にはいかないのに。
その想いは強かったのに、具体的な名詞も方法も浮かんでは来なかった。

あまりに色々なことが朦朧としていて、やがて、再び全てを覆いつくすような睡魔が襲ってきて、

何も考えることができなくなって、眠りに落ちた。




















雪が、降り積もっている。

外の音が一切聞こえてこないのできっとそうなのだろう。
布団から出た体の部位が僅かに忍び寄る冷気を感じる。

けれど、大体にして今の状態は暖かかった。
そのことに安心して、ゆっくりと目を開けた。

 はて、ここはどこだろう。

見覚えのない天井が梁が目に入った。
薬のような、独特の匂いがする。
そういえば布団に入った記憶が無い。
眠る前のことを思い出そうとして、そういえば自分はさっきまで雪の中にいなかったか、と思った。
冷たくて、感覚が無くて、眠くて朦朧としていて、死を覚悟した。

あれは、夢だったのだろうか。
いや、夢ではない。
体のあちらこちらが重く、霜焼けて痒い。

夢で無いとすれば、凍死する前に誰かが見つけて助けてくれたのか。
あんなところを獣以外の誰が通るのか心から不思議ではあったが。

「気が付かれましたか。」

ちょうど良く、凛とした声がかけられ、自分以外の者が同じ部屋にいたのかとようやく気付いた。
首だけを巡らしその方を見れば一人、男が座っていた。

白い、着物の男だ。
赤茶けた髪を肩までそのままに垂らし、表情には愛想笑いは無い。
髪に三方を覆われたその顔は着物のように白く、深窓の姫君か雪を連想させた。
否、蓄えられた立派な髭が『姫君』ではないと断言しておこう。
多少、顔が整ってはいたが。

 雪女…いや、男ならば雪男と呼ぶべきか。

どこかまだ眠気の残る頭でそんなことを考えた。

「崖下で、気を失っておられました。」

言いながら男は立ち上がり、自分の傍へ寄ってくる。
自分も起き上がろうと思い、重い体を揺すると右足に激痛が走った。

「・・・!」

「あ、動かれますな。足の骨を折っておられる。」

男は起き上がろうとした体を静かに押し止め、元通りに寝かせる。
触れてきた手は火にあたっていたはずなのにひんやりと冷たかった。
その手に、やはり人間ではないのかと空恐ろしいものを感じる。

男は静かに続ける。

「…位のある御武家様とお見受けいたしますが、どちらからいらっしゃいました?
 お供の方のいらっしゃる里へご無事をお伝え致しとう存じますが。」

覗き込んだ瞳は冬の空のような冷たい青だった。
有り得ない、だがその美しすぎる色に思わず見蕩れた。

「…如何なさいましたか。」

重ねて問われたので俺は、と言いかけ、頭の真っ白なことに気がついた。

「俺は……。」

男が首を傾げる。
栗色の髪がさらりと彼の肩を滑った。

「…すまん、なにもわからん。」

男は眉をひそめた。

「…嘘ではない。嘘を言ったところで何の得も無い。」

素直に付け足すと、眉をひそめたまま何か思案しているようだったが、ひとたび瞬きすると再び向き直った。

「…わかりました。
 きっと何かの衝撃で記憶を失われているのでしょう。
 …回復のため、とりあえずもう一眠りなさってください。」

労わるような言葉遣いではあったが、声色はそれほど優しくはなかった。
何より、表情が、険しいとは言わないが無表情に近かった。
それが少し、残念だと思った。


「…して、お前の名は。
 雪の化生にも名ぐらいあるのだろう。」

再び襲ってきた睡魔にそのままとろとろと思考を委ねながら思うままに問うた。

雪の妖はわずかに目を見開き、しばしの間、口を開かなかった。

彼の瞳が揺れ、それを見ているうちに自分の方が目蓋を持ち上げていられなくなる。



視界を目蓋に覆わせ闇が訪れ、寝る、そう思った瞬間、彼の声が再び聞こえた。




「…文遠と申します。」

小さく文遠と名乗ったその男は、人間ですよ、と付け足した。














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