104.切望



 錆びのような、一面赤茶色の荒野が広がっていた。
岩ひとつ、枯れ木の一本すらない。
地平線とは、遥か遠くに黄土色の空との境界が曖昧になっている部分のことで、太陽というものは空に存在しなかった。
昼もなければ夜もない。時間という概念すら無くなるような、そんな何もない場所。
吹き抜ける風が、どこからか人の悲鳴のような音を運んでくる。

 大地の上を男が一人歩いていた。
迷える旅人と言うには足取りが確かである。
男の上半身は立派な鎧に覆われていた。
金色の肩当て、胴、赤い縁取りの籠手。右手には研ぎ澄まされた刃のついた大振りの戟。
当てもなく、けれどどこかへ、ただ進んでいる。
どこへ向かっているのかは自分でもわからない。ただ、これではない風景の場所に行きたいと思った。
男の頭には二本の角が生えている。真っ黒で、くるりと一度巻いて前に突き出している。
下半身は黒い馬の姿をしていた。黒い大きな蹄が砂を踏みしめて、馬特有のどこかのどかな音を立てて荒野を渡っていく。

 やがて脚の下に不快な感触があって足元を見ると、ヘドロ色をした人間がそこにいた。
足の下だけではなく、見渡す限り一面から、ざらざら砂をかき分けて生まれてくる。
男は手にした戟で生まれたばかりのそれを薙いだ。ずっしりとした肉の感触が伝わってくる。
男は嬉しくなった。
大きな蹄で踏み砕き、戟を振り回してそいつらを叩き潰しまくった。
そいつらは「敵」だった。
「敵だ、敵がいるぞ」
男は無我夢中でそいつらを殺しまくった。
見渡す限りの敵、敵、敵。
土から生まれたそいつらはあまり素早くなくて、手応えもそれほどなかったが、自分に害意を持って向かってくる、それだけで十分だった。

 男は「闘争心」だった。
はるかはるか昔にはもっと色んなものを持っていたが、今はそれだけになってしまった。砂と風が全部攫っていってしまった。
そのことすら、もう思い出せない。
敵がいて、体があって、武器もある。それだけで満足したまま、苦しみに気付かぬまま彼は荒野で一人永遠に闘い続ける。
敵はどんどん減っていく。
男は楽しくて声をあげて、初めて背中を振り返った。
「愉快だ!なぁ、そうだろう!?」

 後ろには、誰もいない。

男は首を傾げた。飛びかかってきた敵をなぎ払う。
誰か、いる気がしたのだ。
“きちんとついてきているだろうな!?”そう言おうとしたのだ。
だが誰に言うというのだろう。
荒野にはもうずっと、男とヘドロ色人間しかいない。
ずっと一人で歩いてきたはずだ。
だが今誰かに、声をかけたのだ。後ろにいるはずの誰かに。
唐突に、男は少しのことを思い出した。
それは白い手で、白い顔だった。どんな顔かは思い出せない。ただ白い手が。
それから、きれいな緑色か、青色。どっちだかわからない。緑とか青だとかがどんな色だったかも思い出せないのだ。けれど、緑のような、青のような色だった気がする。
敵の首が飛ぶ。豪快に血しぶきが上がった。
その赤さが目についた。視界の端でふわふわと揺れたものに似ている。
少し、違う。あれはもっと、朱いー…
目の端に映る朱。
男はもう一度振り返った。
やはり背後には何もない。
自分が切り崩してきた骸が積み重なっているだけだ。
男は再び戟を振った。もう振り返らない。ただ考えていた。脳裏に残ったアレはなんだろう、と。白い手と、緑と青と、朱。
敵を叩き潰しながら考える。
考えながら闘うのは嫌いなので、考えないことにした。
敵はまだたくさんたくさんいる。楽しみはたくさんたくさん残っている。
けれどそれは頭の端っこにいつまでも残っていた。


 長い長い間闘い続けて、ようやく立っているものは男だけになった。
敵の血まみれの死体は乾燥してさらさらと崩れ、風に吹かれて砂の大地に還っていく。
砂から生まれて砂に還る。不毛なことに思えた。
男は肩で息をしている。
水か何かを飲みたいと思ったが、どこにもそんなものは見当たらない。
仕方がないのでそれは我慢することにして、自分が葬ってきた骸を見返した。
そしてふと思う。
ああ、自分には何もない。
目の端に鮮やかなものが映って振り返ると、男の前に一人の男が何か言いたそうな顔で立っていた。
「……ああ、お前か。」
男は彼を思い出した。
かつて自分にとって有意義だったもの。戦と馬と武器と彼。
唯一男の後ろをついてきた彼。
戦の恍惚の中で振り返るといつも彼がいた。
翡翠色の華やかな鎧を身に纏い、同色の兜から生えた朱い房が彼が動くたびに踊った。
戦場で目立つようにと男が贈った甲冑だった。やたらと派手なそれを、彼は見事に着こなした。
人馬血汗激しく揉み合う戦場で、振り返れば必ずその鮮やかが目に入る。
男はそれが嬉しかった。それで男は満ち足りた。
だがいつからか自分は彼をなくしてしまったのだ。

 目の前にいる彼が白い手を伸ばす。彼はふわりと浮いて、男の顔に触れた。
熱を持った体に気持ちのいい、ひんやりと冷たい手だった。
気持ちが良くて、目を瞑る。ああ、自分はこの手を知っている。
「どこにいたのだ。お前は俺の後ろにいないと駄目だろう。」
彼は少し笑った。
「ずっとお傍におりましたよ。」
彼はかつての鎧と同じ色の着物を着ている。兜の房だと記憶していた朱は彼の髪の毛になっていた。
「む…そうか。」
どこまでも赤茶けた世界で、彼だけが涼やかで目に優しい。
「敵は俺が全て倒してしまったぞ。お前の分は残していない。」
彼はまた少し笑った。
「それは良かった。満足されましたか?」
男は頷きかけて、いいやと首を振った。
「いや、駄目だな。お前がいなかった。お前がいないのがどうにも気になって少しつまらなかった。」
彼は傷をこらえるような顔をした。
「…ずっとお傍にいたのですよ。わたしはもう二度とあなたの傍を離れたりしないと決めたのです。」
男はどこか痛いのかと訊こうとした。彼のどこにも傷は見当たらなかったけれど。
言葉にするより早く彼が首を振る。
「いいえ、どこも怪我はしておりません。違います。」
「何が違うというのだ。怪我をしていないならば、それでいい。」
彼を抱えようとしたけれど、右手は戟でふさがっていたので左手で彼を抱えた。彼は記憶より随分小さくなっていて、片手でも軽々持ち上がった。
「いつの間にか小さくなったか?」
「…いいや、あなたが大きくなられたのだ。」
彼との会話は、どこか噛み合わない。
「…もう行きましょう?闘い尽くして、もう満足されたでしょう?もうお疲れでしょう?」
彼は一生懸命語りかけてくる。彼の肌の冷たさは男を癒やした。自分に足りないのはやはりこれだったのだと得心した。
「ああそうだな、もう行こう。ここの敵はもう全部片付けてしまった。」
彼を抱えたまま男は歩き出す。
「違います、そうではありません。」
彼は男を止めようとした。けれど、彼には男を止める力はない。
「何が違うのだ。ようやくお前も揃ったのだ、次の戦は楽しくなるぞ。お前と方天画戟と赤兎、全て揃った。俺は無敵だ。」
「そうです、あなたは無敵です。あなたにもう敵はいないのです。もう戦わなくていいのです。」
俺は一度だけ立ち止まった。
「馬鹿なことを。戦わずして俺は何をすればいいというのだ。…仕方ない、二本足では大変だろう、俺の背に乗るといい。戦場についた時に疲れ果てていたのでは目も当てられないからな。特別だぞ。」
背中に回されて、彼は力無く男の背にまたがった。
「…ありがとうございます。」
「うむ。」
男は再び歩き出した。
もう、彼には止められない。
「ここは敵がいないからつまらんな。早くここではない場所に行かなくては。」
「…まだ、ここに留まられるおつもりなのですね。」
彼の呟きも、もう男に届かない。
届かないことを知っている。


 彼は「冷静」だった。
彼も彼の荒野を長くさ迷って、ある時ふと上に行けることに気がついたのだ。
苦しみも悲しみもない上の世界に。
周りを見渡せば、多くの仲間がいた。共に登ろうと彼を誘った。
その手を取りかけて、ふと足下を見た。そこに、あの男を見つけてしまったのだ。
彼は上に行くのをやめてしまった。あの男を置いて行けなかった。
だって、その男を愛していたから。
愛していたのに、彼は一度男を置いて行ったことがある。そのまま男は戻らなかった。心臓が真っ二つになるかと思うほどに苦しかった。
だからもう二度と男を置いていくことは出来ない。
自分が上に行く時は、必ず男も連れて行く。 
そう思って男の傍に下りてきたのに、男は「闘争心」だった。
「冷静」である彼が見えない。
戦いの後にこうして少し会えても、会話は噛み合わない。

 彼を取り戻した男は満足げに歩いていく。
進んでいくうちに段々と男の頭は次の戦いに占領されていく。手元には男が望む全てが揃っているのだ、何の心配もない。次の戦いに集中できる。
冷静な彼の声はもう男の耳に届かない。次第にその姿も目に届かなくなっていく。
そうして彼の存在は男の背の上で無くなっていく。
男は全てを忘れていく。


 何度、繰り返しただろう。
戦いを求めて彷徨い、敵が生まれ、戦い、戦いの中で彼を思い出し、戦いが終わってから彼を取り戻し、次の敵を求めるうちに彼を忘れる。
彼を思い出すのは戦場で。彼に会えるのは、戦いが終わった後で。
歯車は噛み合わない。
どうしても、彼は男の手のひらから零れ落ちてしまう。
けれど、男は両方を求めないではいられないのだ。
敵を殲滅し尽したその一瞬だけ、男は「冷静」を取り戻す。その一瞬だけ、二人は邂逅する。


 熱く無我夢中で叫べば、男に届くのだろうか。
けれど彼にはもうそれが出来なかった。声を張り上げることも、熱くなることも。
ただ次の邂逅を待って、何と話しかけるのかを考え続けることしかできない。
一度離れたばかりに、彼と男はそこまで隔たってしまった。
それでも彼は男を置いて行くことはできない。
男を、愛しているから。
そして、男も彼を愛しているから。


 男は上機嫌で背にいる彼に話しかけた。
彼からの声は聞こえないのに、そこにいると信じて疑わないのだ。
「お前がいれば俺はいつまででも戦える。」
それではあなたを戦わせているのは私なのかと。心臓が引きつれるように痛んだ。

 いっそ男と同じ存在になれたら、と思う。
駆ける四本の脚を手に入れて、切れ味の衰えない武器を持って、共に駆け抜けられたら、と。いつかのように。
けれどそれすらもうかなわない。

すれ違い続ける二人を束の間邂逅させるのは、悲しいほどに、愛だった。
いっそ会えなければ、いつかは互いに諦められたのかもしれない。
二人は愛で結び付けられて、もう離れることができない。


 男の背に揺られて、どこまでもどこまでも、歩き続ける。
「もう私の手には、あなたとともに振るう刀すら残っていないのですよ…。」
彼の声はもう誰に聞かれることもなく、荒野を吹き抜ける風にかき消された。












地獄篇。





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