095.お勉強



「最近、城下の壁に不穏な落書きがされているようでございます。」

風もない晴れた日の午後、執務室で陳宮が主にそう切り出した。

「殿の御力や威光を誹謗した内容だとか。」

さして広くない房に陳宮と呂布と張遼の三人が向かいあうように書卓を並べている。
近頃呂布の昼餉の後の二時間は必ず、三人揃っての政務の時間ということになっている。
だが政務の時間、執務の時間などと言ってはいるが、呂布に治世や施政の采配ができるはずも無い。
だがいずれはそうなってもらわねばならぬということで、他の官にはしかめつらしく「執務」と公言しておきながら
二人が教育係となって兎に角気を逸らしがちな生徒を書卓に縛り付けているのだった。

「…だからどうした。」

不快も顕わに呂布が聞き返す。
報告する間に消せ、という間抜けな指示が続けてあって、陳宮は一瞬天井を仰いだ。

「…筆の力というものをあまり軽視なさっては痛い目を見ますよ。」

日々怒鳴りっぱなしの軍師の声帯と胃袋を気遣い、張遼がやんわりと口を挟んだ。
大体、彼は軍師であって宰相ではない。
有能な人員の不足ゆえ仕方は無いが、戦以外での心労は少しでも軽減して差し上げたい。
…そう思う張遼は軍師ですらないのだが。
横からたしなめられて、呂布は眉間に皺を寄せる。

「何がだ。所詮戯言ではないか。」

「そんなことは。
 古来より筆力と呼ばれる有効な力のひとつでございますよ。」

力、と聞いて呂布の目にほのかな興味が沸く。
話せとあごをしゃくられるので張遼はやれやれと思いながら噛み砕いて説明する。

「…例えば、誰かが『呂布は実は弱い』という張り紙をしたとします。」

「俺は強い。」

無表情で混ぜっ返されるのもいつものことと諦める。
主の自己主張の強さに陳宮は歯軋りせんばかりだったが、張遼はこらえた。

「例えば、の話でございます。
最初は民もそのようなこと、ただの落書きかと思って気に留めぬでしょう。
ですが、それが少しずつもっともらしい根拠が書き加えられて、色々な所で目に付くようになると
次第にそうなのではないか、と言う気がしてくる。」

「…流言と同じ類か。」

「流言よりも性質が悪うございます。
人の口を通して伝えられるのならば、その合間に伝える人間の意見や反論も加えられましょう?
ですが書付けは筆者の一方的な意見をそのまま読者に押し付けるものです。
伝聞するうちに曲変するということがありません。」

めずらしく呂布は真面目に聞いている。
実際、彼は張遼の話ならば大概良く聞いた。
文官がどれほど熱心に奏上しようと説明申そうと、碌に聞いてもらえないのは、最初から話を聞く
気が無いのではなく、初歩の語彙で躓くのですぐに異国語状態になってしまうからだった。
それに気付いている者は本人を含めて皆無であるのが不幸の始まり。

だが張遼は無意識のうちにそれを感じ取り、子供の教本のように言い聞かす。
文官でないのが幸いしたのだろう。
それが呂布には聞きやすかった。

「それに口から口へ伝わるにはそのつど時間がかかりますが、書付けならば一度に多数の者が
読むことができ…」

「張遼。」

流れるような説明は再度遮られた。

「…何でございましょう。」

折角説明していたのに、と軽く肩を落とした張遼に向かって、主は新たな問いを投げかけた。


「お前もそれを信じるのか。」


「…は?」

張遼は軽く目を見開く。
陳宮も主旨が微妙にずれたので注視した。
二人の遠慮ない視点を受け止め呂布は平然と言い直す。

「誰が書いたかもわからぬもっともらしい根拠をくっつけた戯言の書付けを毎日読んでいたら、
お前も俺が弱いなどと疑い始めるのか。」

「まさか!そんなことあろうはずがございません!
殿の強さは誰よりもこの文遠が存じております!」


呂布はふっ、と笑んだ。

「ならば、いい。」



「陳宮、書付の犯人を早急に探し出せ。
俺の前で首を刎ねろ。
頭が良いとか己惚れてこそこそ隠れているような腰抜けは許せん。」

肩越しに言い捨てて、戸布を押し分け房を出て行く。
あまりにも堂々としているので一瞬引き止めるのを忘れた陳宮が慌てて覚醒しどこへ、と怒鳴ると呂布は
振り返りもせずに「風に当たる」と答えた。
彼の『風に当たる』はそのまま帰ってこないことが多い。
今日中に決済したい書簡を抱え、青筋を立てて陳宮は後を追っていった。

ぽつり、と房に残された張遼は、陳宮の怒鳴り声も聞こえなくなった頃、その場にへたりと座り込んでしまった。
その顔を誰も覗き込む者はいないが、自覚できるほどにそれは真っ赤になっていた。


 呂布どのが、「フッ」て。
 どうしよう。
 …うわぁ、どうしよう。



張遼が無条件に呂布に甘いのも、
呂布がことあるごとに張遼を魅了するのも。

天然だから性質が悪い。










…あ。時代的に民衆は文字読めないよ、っていうツッコミは無しということで。
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