張遼が都に来て一週間が経った。
相変わらず呂布は張遼を飼い慣らそうと追いかけ、張遼はひらりひらりと避け続けている。
あの一戦以来、二人は何度か手合わせをしているが、毎度勝利の一撃を食らわせに行った張遼が寸前で突然距離を取り、そこで終了となる。
呂布の支配を受けないために自主的に攻撃をやめるという張遼の工夫だが、呂布も明らかにとどめを免除してもらっている形になるので、腹だけは立つが何も言えない。
呂布が張遼を完全に支配できるのはまだ自在とはいかず、戦いの中での生死のかかった一瞬だけであるらしい。
呂布は張遼に舐められていると思い続けている。
ゆえに二人の距離は未だ変わらないままだ。
張遼は気が長く待つことには慣れている。
しかし張遼の期待する爆発的な何かは、張遼が思うよりも早く訪れようとしていた。



 のどかとも思える大寺院に突如半鐘の音が響き渡った。
音を聞いて寺院中の人間に緊張が走った。それまでの行動をやめ、機敏にそれぞれの方向に無言で走り出す。
張遼の正面で碁を打っていた男も立ち上がって伝声器に耳をそばだてた。
「孫堅どの?」
大体の予測は付きながらも問いかける。
ここは魔物から人々を守るために存在する機関だ。
「敵が来たぞ張遼。」
答える孫堅はどこか楽しそうだった。
寺院の各所に備えつけられた伝声器から、通信師の報告が告げられる。
『連章ノ北東ヨリ侵攻アリ!魔素ハ段階三!大規模ナ布陣ノ模様!』
伝声器からの魔力を帯びた無機質な声は否が応にも非常事態を感じ取らせて、張遼も緊張する。
「魔素が薄いのに規模はでかい、雑魚の大群だということだ。」
孫堅の声を聞くか否か。
暴力の塊が部屋に飛び込んでくる。
「文遠!!」
喧騒に紛れて重たい呂布の足音に気がつかなかった。いや、違う、彼は走ると軽やかに足音が消えるのだ。
駆けてきたはずだが息など乱れてはいない。
両目が爛々と輝いている。
「来い!!戦だ!!」
張遼は走り出した呂布の後を迷いなく追いかけた。


 「お前の武器は間に合わなかったな。」
部下に鎧を着けさせながら、腕を組んで部屋の入り口に立つ張遼を見る。口調は、言葉ほどは残念がっていない。張遼には武器があってもなくても大して差はないと思っているのだろう。
一応先日張遼用の武器を注文したのだが、将軍が用意させる物とあれば特注ゆえ一朝一夕で出来上がるものではない。
「いらぬ。貴公が勝手に注文したものだ。」
「本当に鎧もいらんのか。」
「いらぬ。私は見物に行くだけだ。余波に当たるほど寝ぼけているつもりはない。」
呂布は鼻で笑った。
「戦場に見物するものがあるとも思えんが。」
「貴公を。」
張遼はまばたきもせずに呂布を見返した。
「戦場に立つ貴公を見に参る。」
真っ直ぐな視線を受けて、先に呂布が目をそらした。
「…無手はどうかと思うが。」
幾分勢いの弱まった言葉に、張遼はそれもそうかと思う。
そしてそばにあった戟を一振り手にした。
並みの男では持ち上げるのもやっとというそれを、片手で振ってみせる。
「では、貴方のものを一振り貸していただこう。」



 豪奢な鎧をまとった呂布は、愛馬に跨り片手に戟を携えた。
その横には上等な平服で大きな戟を唐突に携えた張遼が徒歩でてくてくとついている。
「馬もいらんのか。」
「いりません。」
ふん、と呂布は鼻を鳴らした。呂布は馬が好きだ。
張遼とすれば己より足の遅いものに乗る気がしない。
二人の前方には紫色に光る大きな魔法陣が展開している。戦場へと移動するための転送装置だ。
僧兵が接近に気がついて呂布の出陣を宣言する。
「呂将軍が出られるぞ!!」
周囲の僧兵や騎士達が手を止めて敬礼をして呂布を見つめた。
呂布の愛馬が勇んで鼻を鳴らし、首を振る。重たい足音を鳴らして一歩一歩進む。勇む呂布の圧倒的な迫力。
どれだけ慣れた者の目であろうと奪うには十分だ。
彼の背後には呂布配下の40騎が整列している。
呂布の部隊は全て騎士の騎兵である。後方支援部隊も所属しているにはいるが、魔法陣を通って前線に出ることはない。伝令も補給部隊もない。歩兵もいない。
怪我をしたものは速やかに魔法陣を通って寺院に帰るか、近くの他部隊に駆け込む。もしくは、死ぬ。状況判断は各自の判断に任される。
少数精鋭といえば聞こえはいいが、率いる将軍が最前線で個人の戦闘に没頭するばかりで何の指示も出せないゆえにこの特異な体制が出来上がった。
総じて、武勇に優れ協調性に欠ける個性的な面々が集められている。
それらが随獣を伴い騎馬を進め、戦に向けて目をぎらつかせている。そしてその先頭に呂布。
威容であった。
「行くぞ!呂軍の名に恥じぬ武を奮え!」
前を睨んだまま呂布が激を飛ばす。応えて背後から太い歓声が上がった。
呂布は次いで声を落とした。
「文遠。」
張遼は見上げる。馬上の男は振り返りはしない。
「見ていろ。本物の武というものを教えてやる。」
強い顔をしていて、あの獰猛な笑顔はなかった。けれど張遼の胸はときめく。
「ハッ!!」
手綱を振るい、馬が走り出す。
呂布と同時に張遼も魔法陣へ踏み出した。

 魔法陣の上は真っ白な光だった。前後左右も上下も真っ白な中を歩いていくと、唐突に違う世界に出る。
目の前には昼だというのに薄暗い空と雪原が広がっていた。無論、幕舎がいくつも建てられ基地が展開している中だ。
魔法陣を通り抜け、前方を確認した呂布は馬の横腹を蹴った。
「ハアッ!!」
いななきを上げて赤兎馬は走り出す。
後続を確認もしない。前方に敵がいる。それしか頭にないようだった。
張遼は後続のために横にさけ、呂布が駆けていった方角を見つめる。その先には地獄から這い出てきた魔物の大群がいた。
地下の異空間に住むそれらは、この大地の覇権を狙っている。基本的には知能が低いが、奴らにもそれなりの階級制度があるらしく、大物になると明確な会話も可能になる。
だが先に聞いていた情報通り、支配階級、つまり指揮者級は今回進軍してきていないようだ。
ふわふわと形の定まらない煙のようなものが多い。
魔物の囁きが張遼の耳に届く。
『何か来たよ…』『何か来たね…』『とっても強いよ…』『とっても強い何かだよ…』
低級は低級なりに張遼に気付いたらしい。
だがあまり張遼に反応してうろたえられて、呂布の手応えを減らしてしまうのも困る。
張遼は気配を消した。
単純にも消えた、という囁きが交わされる。
冷たい風が吹き抜けた。
ぶるり、と身震いする。
人型でいると暑いし寒いのが困りものだ。
腰のあたりに気をやって、するりと尻尾を生やす。
そうすると体感温度が限りなく遮断される。要するに、人型でなくなればなくなるほど強まる妖気で体表が包まれて、冷気も熱気もはねのけるのだ。
視界も良くなった気がして、張遼は機嫌が良くなり腹を据えて目先に集中した。
呂布隊の騎馬が重たい足音を立てて張遼の横を駆け抜けていく。
さすがに歴戦の騎士達は戦場に赴いても浮ついたりせず冷静だ。
むしろ、それが騎士というものだ。幼児の頃から特別な訓練を受け、心身共に人間の限界まで磨き上げられる。呂布もそうして育ったはずだ。あの闘争心はその厳しい訓練でも削ぎ落とせなかったのかと思うといっそ関心してしまう。
呂布が最前線にたどり着いた。
速度を落とさず突っ込み、振り抜いた戟が魔物を叩き斬る。
そこからはもう独壇場だった。水を得た魚のように、という状態だ。描写の必要もないほど縦横無尽に駆け抜け、馬で踏み潰し、戟で叩き斬る。魔物の分厚い体がたやすく両断される。
魔物は特別に錬成された特殊な武器でしか傷つけることができない。だから呂布が持っているのもそうなのだが、彼が持つと更に特別な魔法でもかかっているかのようだ。
魔物を殺す呂布は本当に輝いていた。赤子だけでなく大人でも裸足で逃げ出しそうな凶相だったが張遼にはそう見えた。
それは泉の契約のせいではない。と、思う。
運命の恋人を見つけてしまったのだなぁ、と思い自然に口元が弛む。
「張遼?」
呂布の戦いが始まってだいぶ経った頃、初めて声がかかった。
呼ばれて振り返る。采配を振るっていた孫堅だった。彼はまさに将軍と呼ぶに相応しい働きをする。
「そんなところでどうした。寒くないか。」
張遼が尻尾で返事をする。孫堅はそれでああ、と納得したようだった。
「呂布に付いて行かないのか?」
「今日は見物しようと思っていたので。」
「ここで見えるのか?」
「ええ。」
孫堅が少し驚く。
「ですが…まぁもう終わりも近いようですし、もう少し近寄って見ましょうかね。」
顎髭を撫でながら言う。
小さな村なら飲み込んでしまいそうなほど押し寄せていた大群の魔物は、優秀な騎士や僧兵たちの活躍で敗北が見えつつある。
「せっかくですから、我が主となる方に私の力の少しでもをお見せしておきましょうか。あの方は私を高価な猫か何かと間違えているような節が多々ありますからなぁ。」
張遼は他人事のように言って、皮肉げに笑う。
呂布を主と呼ぼうとしていることに孫堅も気付いた。
片手で一度戟を振るい、斜め後ろに構える。
「孫堅どの。」
「ん?」
戦場を見据え、孫堅に背を向けたまま彼を呼んだ。
「馬と獣達をしっかり抑えておられよ。」
は?と問い返す間も待ってくれなかった。
張遼の妖気が爆発した。

 爆風のような妖気を浴びて孫堅はたたらを踏んだ。
陣営にいた馬全てが嘶きをあげて暴れ出した。騎士と契約する獣達も瞬間的に地に身を伏せて、一方向に視線を集めている。
その中心にいる張遼にはその動物達の声が聞こえていた。
反対方向からは血と死の濃い匂いがする。
長い時を生き達観した張遼だが、その本性は肉食獣である。戦場での妖力解放は本性を揺さぶった。
うっとりと目を閉じる。
「心地良い。」
しばし味わうように髪の毛を妖気の奔流に波打たせて、張遼は開眼した。
陣営内で馬が暴れ続ける中、一頭が静かに進み出てくる。落ち着いたというよりは、死を受け入れた生け贄のような顔をしていると孫堅は思った。
張遼は呼び出したその馬の首を叩くと、ひらりと体重を感じさせない動きで背に飛び乗った。張遼は念で他の動物に語りかけることができる。
この馬が自分を生け贄だと思っているかどうかは張遼にはどうでもいい。ただ足が欲しかっただけだ。人型で走るのは遅すぎるし、獣型に転変して四足で走っては、戦場で戟を振るうために全裸になってしまう。
張遼は手綱を絞った。
「参る!」
馬は駆け出していく。馬自身が驚くような速度で。


 前線でも突如変化は起きていた。
魔物がぴたりと動きを止めたのだ。騎士達の陣営の方を見てざわざわと人にはわからない言葉でざわめく。
随獣達も陣営を見て身を屈めた。異常事態に人のほうでも戦う手を止めた。次いで跨る馬達が浮き足立つ。
呂布の赤兎も四つ足を踏ん張り陣営を見つめている。
「どうした赤兎…」
動かぬ戦場にじれて呼びかけた時、呂布もそれの接近に気が付いた。
あれが来る。

 『何か来るよ。』『何か来る。』『とても強い。』『強いよ。』『皆殺しだ。』

呂布から雪原の中の黒い点としてその姿が視認できるようになった。それは圧倒的な妖気を持って近付いてくる。
それが吼えた。
腹の底を震わすような太い肉食獣の咆哮。
有形の魔物の周囲に漂っていた黒い煙のような魔物が全てかき消えた。呂布の周囲の有形の魔物の頭が破裂して吹き飛んだ。
残された体が灰となってはらはらと風に崩されていく。
元来楽器と武器の音と獣のほうこうには魔を祓う力がある。神通力を持つ張遼ともなるとその一声でこれだけの魔物をせん滅するのか。
呆然としていた人間の元に一騎が駆け込んでくる。乗馬していた者が馬の背から跳んだ。
高く舞い上がり中空で身を回転させて、呂布の前に着地する。
「呂布どのの戦、しかと見せていただいた。」
何を思うのか、呂布が口をへの字に引き結ぶ。
張遼は構わない。
「邪魔もはばかられるかと思ったが、既に趨勢も決した。今からはこの文遠の武をお見せしたいが、いかがか?」
戟を持つ手を下ろす。
呂布は笑った。
低い声が張遼の背中を押す。
「いいだろう。お前の武、この俺に見せてみろ!」
その一言で雪原に鬼神が舞い降りた。



 戦は寺院の圧勝で終わった。
死者は僧兵の一人も出ていない。
この戦果が、一人の騎士とその契約獣によるものであることは誰の疑う余地も無かった。
寺院に戻ると、明らかに浮き足立った騎士や僧兵たちが呂布隊を迎えた。これは厳粛たるべし、の寺院ではめずらしいことだ。
それほど張遼の戦いは圧倒的で伝説的だった。
あの時すぐに張遼を追った孫堅が見たのは、人馬一体となって吹雪の嵐を生み出している張遼だった。
本来臆病なはずの馬が、微塵も怯むことなく異形の化け物の大群の中を駆け抜ける。その背にいる張遼は自身よりも背の高い戟を縦横無尽に振り回し、一振りで何体もの魔物を灰に変えた。
散るのが間に合わないその中を張遼が駆け抜ける様子は、まるで真っ白な吹雪のようだった。
もしも、これが死んで灰になる魔物ではなく血の噴き出る生き物だったなら。雪原は真っ赤に染め上げられたのだろう。
噎せ返るような血の匂いの中で、返り血を滴らせた張遼が笑う。
そんな想像をして、改めて孫堅は張遼が欲しくなった。
呂布が手に入れられたものを、自分が御せないわけがない。
御する自信は十二分にあった。
そして二人の間にはまだ食い込む隙がありそうに思えたのだ。

 張遼は灰を払い落としながら呂布に近付く。
何気ない素振りを装うとしたが、一歩歩くごとに自然と口角がつり上がるのを止められなかった。
「…如何でしたかな?」
「…。」
自信たっぷりの張遼と沈黙する呂布。
部下達は多少なりともはらはらとそれを見守っていた。呂布は寺院きっての負けず嫌いで気難しい男だ。
戦が無いと機嫌が悪い。雑魚との戦はしたくもない。そして出番を横取りされると暴れる。
一旦は許可を出したものの、暴れ足りなくて今になって機嫌が悪いのではないかと思ったのだ。
呂布の腕が馬上から伸びて張遼の頭を掴む。部下達は息を飲んだ。
けれど呂布はそのままわしわしと撫でた。
「上出来だ!俺にふさわしい!」
「・・・・・・!」
途端に張遼の中を稲妻のように興奮が駆け抜けた。
「!?」
心臓がばくばくと音を立てる。顔が火照って瞳の表面を覆う水分が増えた。
予期せぬ自分の体の反応に戸惑う。
何事かと分析してみるとどう考えてもこれは“褒められて嬉しい”。
急に恥ずかしくなって張遼は頭に乗った大きな手を振り払った。
「当たり前です!貴公、なっ…何様のつもりですか!」
呂布は一瞬振り払われた手を見る。
けれどすぐに片頬を引き上げて笑った。
その笑みを見れば、張遼も嫌でもわかる。
…全て見透かされている。






 夜。
空は高く澄み渡り星の瞬きが美しかった。
都の中心だというのに、寺院から見る星空は張遼の棲んでいた高い雪山と同じくらいに美しい。これは清浄な気を常に吹き上げている寺院上空部分のみだ。真上のみ、ぽっかりと闇と星が濃い。
人々の住む地区のほうを見れば、深夜まで灯りが絶えることがなく喧しい。
だがその喧騒も、張遼のいる部屋までは届いてこない。寺院の広大な敷地のせいだけではない。寺院は特殊な結界で包まれていて、その聖性を守られているのだ。その結界の作用で雑念や猥雑な喧騒は中に届いてこない。寺院は意外にも張遼にとって棲み良い環境だった。
張遼は呂布の私室にいた。
初めて訪れたのだが、室内の調度品の統一感の無さに閉口してしまった。
清貧を志す寺院に所属するだけはあり、寝具や基本的な内装は他の部屋とあまり変わりのない、将軍という地位から連想するものよりははるかに質素なものであったが、無造作に転がされている趣味のと思われる品々は庶民ではまず手にできないものだった。
適当に置かれた、としか言えない状態で並ぶ、木彫りの等身大の虎、熊、伝説の生き物。派手な牡丹の描かれた白磁の壷。
質素だが大きな寝台には、ちぐはぐな感じが否めない天鵞絨の暗褐色の天蓋がついていた。
そして、唐突に戟や殺傷力の高い武器が転がっている。手入れのためにそばに置いていると言ったとしても、子供だって信じないだろう。
山育ちの張遼から見ても、趣味はよくない。ごてごてとしているし、どれからも漲る力が伝わってきて、気の休まらない部屋だ。
開け放った窓に広がる星空が救いだ。
「悪趣味な部屋ですね。」
遠慮なくすっぱり言い切られて、呂布は杯を口に当てたまま張遼をじろりと睨んだ。
杯を干す。
「…そばに寄り付きもしなかったくせに、どういう風の吹き回しだ?」
趣味をけなされてむっとはしているが、全体的に機嫌は悪くない。
昼間の戦の余韻が残っているのだろう。
呂布にとって実にふた月ぶりにもなる戦であり、雑魚ばかりとはいえ大暴れできたし、張遼の実戦における戦闘能力も確認できた。
呂布は普段からよく食いよく飲むが、今日は格別酒が進むようだ。上等な酒が瓶でなく甕で用意されている。
「…少し、思うところがありまして。」
呆れた顔から真面目な表情に改まった張遼を、呂布は不思議そうに見返した。
「なんだ?」
張遼は、指先がぴりりと痺れるのを感じた。
「…呂布どのは何ゆえ戦われる?」
薄い唇から凪いだ声がこぼれた。
唐突な問いに呂布の手が止まる。
しばし、二人は見つめ合う。
つまらぬことを、と呂布は吐き捨てはしなかった。野生の勘で、これが答えを外せない問いだと感じ取ったのだ。
だが呂布は実に自然に口を開いた。
張遼がどんな答えを望んでいようと、己は己、曲げることも飾ることもない。
「それが俺の生きる意味だからだ。」
「意味、とは。」
重ねられた問いに、呂布は軽く眉間にしわを作る。
それだけでわかれ、という意思表示だろう。張遼とてまるで伝わらぬわけではない。だがあえて明確な言葉を要求した。
これは儀式なのだ。
「戦いが最も俺を俺にする。その瞬間、俺は生きている。」
張遼は目を細めた。
呂布が眩しい。
「あの血が踊る感覚がいつも俺を呼んでいる。俺の体の中にはいつも馬と武器の音がある。他者などどうでもいい。俺は戦場で神になる。」
そして、自分を語るのと同じ熱で張遼に手を伸べた。
「それをお前と共に、だ。」
差し出された大きな手。
張遼は震えながら、その手を取ってしまいたい衝動に抗う。
「…今ひとつだけ…。」
呂布はなんだと目で催促する。
「力弱きものは呂布どのにとって?」
「どうでもいい。俺はどうでもいいものを虐げも庇護もしない。目の前を素通りさせるだけだ。」
それはまるきり獣の論理で。
はっ、はっ、と張遼は短く息を吐いた。
呂布の目が見られない。息が苦しい。
恐怖ではない。威圧でもない。屈辱でもない。
(食われる。)
これは、幸福なのだ。
「呂布どの。」
震える声で彼を呼んだ。
呂布は張遼を待っている。
手を、差し伸べて。
「私が欲しいか。」

「お前しか要らん。」

張遼は差し出された手を掴み呂布の口に噛みついた。
獣のような唐突の口付けに呂布は迷いなく応える。
目すら閉じない。
張遼は服従するように固く瞼を伏せていた。
自分から噛みついたはずなのにいつの間にか好きに蹂躙されていることに被虐的な快感を覚える。
いつの間にか腰を抱かれ、更に強く引かれたところで僅かに自分に返り、唇を離した。
呂布は無言で見上げてくる。
その顔に手を添えて張遼は囁いた。
「あなたの目は私の目。あなたの言葉は私の使命。」
呂布は目を見開いた。
それは泉の契約によって人語を操るようになった獣が初めて口にする真言。
「私の牙はあなたの剣。私の体はあなたの盾。決してそばを離れず、この身とこの命の全てを賭けてあなたと共に戦う。」
何よりも甘い睦言。
期待に熱を持った呂布の強い眼差しがくすぐったく、腰に回された太い腕と握り合った手が、高まる熱を伝える。
契約を交わす全ての獣たちは、こんな幸福の中で初めての言葉を口にするのだろうか。
いや、きっと違う。泉に強制されて零れ落ちる言葉など、しゃべる練習のようなものだ。
これは張遼の特権だ。
今を迎えるために張遼は長い長い時を生き、強くなり続けたのだ。
「私の全てをお預けする。」
心も体も全て捧げる。
「我が、主よ。」
呂布が張遼を引き寄せ、張遼は自ら唇を差し出した。

 空気を求めてのけぞって唇を離すと、呂布は目の前に晒された張遼の首に噛みついた。
食い込む歯の痛みに短く、あ、と声が漏れる。
そのかすれ声の甘さに自分で驚いた。まさか自分からこんな繊細な声が出るなんて。
たとえそのまま食い破られたとしても、張遼には甘い痛みとしか感じられないだろう。呂布の触れている部分全てがじわじわと温かな快感をもたらしている。
張遼の心中に構わず呂布は腕の中の体をまさぐり衣の襟を大きくくつろげて行く。
張遼は初めての感覚を、目を閉じながら全て受け入れようとしていた。
くくっ、と呂布が笑ったのに気付いて目を開ける。
「・・・何か?」
「いや。お前、いつもそれくらい素直でいればいいものを。」
揶揄されて、幼い意地と僅かな羞恥がこみ上げる。
「…では、今からは心がけましょう。」
予想外の、あまりに素直な態度に、今度は呂布が目を丸くする。これほどまでに豹変されると不審な気がしてくる。
「…お前、何かたくらんでいるんじゃないだろうな?」
張遼はとろんとした瞳のまま言葉の意味を解読するのに時間がかかっているようだったが、数秒して羞恥で顔を真っ赤にした。
「たくらむ、など!人間であるまいし!そ、それに、このようなこと・・・どれほどのたくらみがあればこのようなことができましょうか・・・」
相手の顔を睨み上げるが、語尾は消え入り、その瞳は潤んでいて鋭さの欠片もない。
けれど睨まれて、呂布は息が詰まった。
呂布は、はっきり言って頭は良くない。得意分野に関係する戦術すらさっぱりだし、少年時代には寺院の学科で交渉術や人の考えを読解する勉強で散々な成績を取り続けた。何度か落第もした。
その呂布が、今ははっきりとわかった。
張遼は、相変わらず呂布に従うことを屈辱に感じているのだ。けれど同時に、それを上回るほど、呂布に服従することに悦びを感じているのだ。
呂布は張遼の口を吸い上げた。
これは俺の物だ。
これほどの、良きものを。上等でふたつと無い存在を。
俺が手に入れた。
そう思うとたまらない。
口を合わせたまま張遼の体を抱え上げ、寝台へと運ぶ。張遼一人抱え上げても、呂布はまるで涼しい顔をしている。
唇の角度を変えて呼吸をしながら、性急にやわらかな寝台にもつれ込む。

 主の匂いだ。
汗臭い、と一蹴できそうなものが張遼にはいい匂いとしか思えない。獣の本性のほうが勝っているのだ。
呂布の首を抱き寄せて、耳元に顔をうずめて思い切り息を吸い込む。
頭がくらくらする。
無意識に、腰が揺れる。膝をすり合わせる。

 張遼の動きに気付いて呂布はにやりと笑うとその膝を無遠慮に捕まえた。着物の内側に手を差し込み、太腿を直に撫でる。首筋、鎖骨と順に噛み付いて段々下降していく。尻を掴み、大きな手のひらで好きに揉む。女ほど柔らかくはないが、女のように白いその肌は、どこもかしこも呂布の手のひらにしっとりと吸い付くようだった。
ん、ん、と張遼が反応して小さく声を漏らす。
芯を持ち始めた中心に触れると、羞恥にか目を瞑った。もう片方の手でもっと奥に触れても、瞼をひくつかせただけで抵抗しなかった。
一旦手を離し、寝台横の卓子の上に手を伸ばして蓋のついた小さな金属製の壷を手に取る。中身は武器の手入れ用の丁子油だ。呂布の特注品で、百里香の花の蕾から採った油に、最高級の椿の実の油を調合してある。花の香りが部屋に広がった。右手の指をそれにくぐらせて張遼の後ろに再び触れる。ひやりとした感触に、張遼は淡い色のまつげを震わせた。
「文遠。」
名を呼ぶと、ゆっくりと瞼を持ち上げた。潤んだ氷色の瞳が現れて、呂布を見上げる。
確実な快楽と、同時に与えられる今まで経験したことのない異様な感覚に、混乱している。だが呂布を疑わない。その織り交ざった瞳の色が愛らしかった。呂布が何も言わないので、視線はおろおろとさまよい始める。濡れた音が聞こえるたびに、頬が染まっていく。
反応を楽しみながら呂布は中に入れる指を増やした。長い指がゆっくりと張遼の中をかき回す。
「呂布、どの。」
耐えかねたように名を呼ぶので上半身を傾けてやると、張遼の腕が縋るように首に絡みついてきた。
ついさっきまで、まるで興味ありませんとでも言うような冷めた顔をしていたくせに、随分な変わりようだ。
呂布の指が、遠慮なくそこを広げていく。
宥めるようにこめかみに口付けを落とすと、張遼はわずかに緊張の力を抜いた。前髪を撫で、唇に舌を這わす。優しい手つきと口付けに陶酔しきっている張遼からそっと指を引き抜き、呂布の熱の先端を埋め込んだ。
「は、」
張遼のからだが引き攣る。本能的な恐怖から逃げる腰を両手で掴まえて押さえつける。それでも逃げようと身をよじるので、許さないと言わんばかりに肩に噛み付いた。
その痛みに、張遼は一度大きく震えて、それから再び呂布にしがみついた。
裂かれるような痛みに、浅い息を繰り返して耐えている張遼を宥めてやりたかったが、何せ呂布もきつい。小さく前後に腰を動かすと呂布も息が上がった。

 まるで痛みを堪えるかのような表情の呂布をなんとかしてやりたいと思ったが、張遼は生まれて初めての痛みと不安と羞恥に唇を噛み締めて耐えるので精一杯だった。
先ほどから、強烈な花と油と主の匂いに包まれて、脳の一部が痺れてしまっているので、まともな言葉がしゃべれるかどうかも怪しい。鼻も目も耳も、肌も内臓も、自分のものではないかのようにコントロールできず、全ての器官が呂布を感じようとしていた。
途中から一気に入り込んできた圧迫感に張遼は高い悲鳴をあげる。もうどうしたらいいかわからない。
「…文遠。」
幾分落ち着いた声で呼ばれて、主の熱が根元まで自分の中に収まっているのに気が付いた。呂布はねぎらうように口付けを降らせてくる。彼にそうされると、なんだか誇らしいような気持ちが湧いてきて、僅かながらに微笑む余裕が生まれた。
だが呂布は犬歯を見せて笑い返したので、唐突に嫌な予感に襲われる。
「待っ…!」
案の定、呂布は張遼が何かを言うより早く腰を大きく引くと再び打ちつけた。
声にならない悲鳴と共に、張遼の足首が跳ね上がる。
背中から腰に落雷を受けたような衝撃が走って、張遼はぎゅうと目を瞑る。
きつく締め付けられた呂布も息を詰まらせる。
「待っ、て…」
息も絶え絶えに背中を弱弱しく叩くと、呂布は張遼の額とこめかみの生え際に唇を落とし、左手で張遼の髪を撫でる。右腕が張遼の胴に回された。なんだか更に追い詰められたような気がして、張遼は泣きたくなった。
深く刺し込まれた楔がゆっくりと引かれると、内臓ごと腰が引きずられ、また肉を割って侵入してくると、からだ全体が押し上げられる。
勝手だ、と憤慨したが、張遼の口は呼吸と溢れそうな悲鳴の我慢に精一杯で、せめてもの意趣返しに、縋った呂布の背中に爪を立てるしかなかった。
既に張遼の心と体は、呂布に陥落している。
待ち続けた存在が、呂布が、ここにいる。呂布と、繋がっている。それだけで満たされて、痛みは間もなく痺れそうなほどの快感へと変わる。


 りょふどの、りょふどの。
合間に何度も呂布の名を呼んだが、呂布は返事らしい返事をしてやらない。呂布も張遼のからだの感触と匂いに夢中だった。
美姫と呼ばれる娼婦たちは数え切れぬほど抱いてきたが、これほど本能を揺さぶられる匂いは嗅いだことがない。獣のくせに、そのなめらかな肌や首筋からは、花のような清涼な匂いと、森の中で探し当てた果実のような甘い匂いがする。
実際森の中で探し当てたのだったか、と思い出して口の端をつり上げた。
呂布はあの極寒の森で、死にかけた。フェイクではなく、本当に死ぬのだと思った。あの狩りは、呂布にとって戦だった。陰謀や兵力差など存在しない、純然たる一対一の戦い。そして雪の中で呂布は生まれて初めての完全なる敗北を味わった。
足掻きも言い訳もできない圧倒的な力差に、どうしようもなく心の底から負けを受け入れた。負けとは、死のことだとずっと理解していた。だから、正々堂々と死を受け入れた。…つもりだった。
確実に死ぬとわかる暗い冷たい世界の中に、わずかな温かい光がぽつんと灯る。それは、少しずつ近付いてきた。近付くたびに周囲の気が優しいものに変わっていく。凍える寒さは遠くなり、癒すような温かさが呂布の傍で瞬いている。
これは、なんだ。
まるで感じたことのない優しい気配が呂布の尽きたはずの力をもう一度呼び戻し、ゆっくりと瞼を持ち上げさせた。
目の前にいたのは、力の塊だった。生き物の命を一瞬で削り取るための鋭い爪、全てを噛み砕く巨大な牙、山を割り空を裂く甚大な妖力。あまねく死をもたらす暴力を内包したもの。
それが、途方も無く美しかったのだ。
神に出会ったのだと思った。
手を伸ばして捕まえた神は、呂布から名を受け、呂布に微笑み返したばかりか、支配されるために腕を差し出している。
自分は神に愛されている。
呂布は張遼の心臓の上に荒々しく口付ける。口付けだけでは足りない。もっとだ。
この強く美しい生き物は。
「俺の、ものだ。」
命に一番近いところに牙を立てられて、張遼は高い悲鳴を上げてのけぞった。









 深い眠りの中から、意識が浮上してくる。
遠くから小鳥の鳴き声が聞こえた。随分と少女趣味な目覚めだ。だが、気分は悪くない。
呂布は、自分が抱きしめているのが男の腰だということに気がついた。しかも彼は、朝日を背に受けて、呂布の顔に遠慮の無い日光が直接当たらないように配慮している。
「…呂布どの、お目覚めか?」
呼ばれて顔を上げると、澄んだ瞳が呂布を見下ろしていた。微笑んだ彼が、呂布の眉間に寄せられた皺を指でほぐす。
絹糸のような明るい栗色の髪が、絹の寝巻きに包まれた彼の肩をさらりと滑った。彼の背中の向こうで、白い尾と赤い炎がゆらゆらと揺れている。
こういう朝の場合、自分の方が先に起きて、情事に疲れた恋人の寝顔を見守っているべきなのではないかと思ったが、相手は人間の男のように見えても神と呼ばれる獣なのだ。体力の規格が違う。
呂布が手を伸ばして頬を撫でると、彼は気持ちよさげに目を細める。
その様子はまるきり人懐こい猫のようだった。
まだ頭のどこかに、信じられない、と驚嘆している自分がいる。

 呂布はずっと彼が欲しかった。
幼いころ、ずっと北の氷の山に、神さまのような獣が棲んでいるという話を聞いた。
どんなに大勢で取り囲んでも、どんなに強い契約獣を連れて行っても、絶対に捕まらないのだという。
「じゃあ俺が一番にその獣をつかまえてやろう!」とまだ華奢な胸を叩いて宣言すると、幼年学級を担当していた皺皺の老僧は目を細めて頑張りなさい、と言ってくれた。だが彼がそんなことはできっこないと思っているということは、呂布にはすぐにわかった。
騎士試験に合格し、戦場に出てその名を轟かせるようになってくると、周囲から随獣は持たないかと勧められるになった。だがそう言って引き合わせられた獣は、どいつもこいつも獣としての本性を挫かれた顔をしていた。
自分で捕まえるしかないと腹を決め、文献を漁った。数多くの強大な神獣、霊獣の存在を知った。だがどの伝説を知っても、やはり欲しいのは北の神豹だった。
人を寄せ付けぬ美しい死の山で、牙と爪を研ぎながら、世を厭うように誰とも関わらず孤高に生きている。
彼を戦場に引きずり出したいと思った。
だって、彼は静かに生きながらも、戦うための牙と爪を研ぎ澄まし続けているのだ。
きっと彼は、待っている。
自分を従えて戦場を駆ける、最強の騎士を。
俺が、それになるのだ。
夢にまで見た最強の神獣は、呂布を叩きのめし、生まれ変わらせた。そして、呂布に膝を折った。

 「…文遠。」
「はい。」
呼べば、返事をする。
それだけのことが、どうにも嬉しくてたまらなくて、呂布は必死で仏頂面を作って眉間に皺を寄せた。
「昨夜の契約に偽りは無いな?」
彼の双眸が呂布を見据える。呂布が魅入られた、氷色の瞳。美しいそれは獣の時と変わらず純粋そのものの輝きで真っ直ぐに呂布だけを捉えている。
「何度でも誓う。いや…何度でも、お誓い致します。」
きりり、と彼の表情が引き締まる。
彼は笑っている。だが、その白い顔からは寝坊した恋人の髪を撫でていたやわらかさは去り、強さを求める戦士の熱意と潔さをたたえていた。
「あなたの目は私の目。あなたの言葉は私の使命。私の牙はあなたの剣。私の体はあなたの盾。」
契約の真言は、獣の愛の告白だ。
そして、獣は絶対に約束を違えない。
「決してそばを離れず、この身とこの命の全てを賭けてあなたと共に戦う。」
彼を得て、俺の戦はまた楽しくなる。人生が、
耐え切れず、呂布は笑い出した。
張遼の惚れた、獣のような笑顔で。
「私の全てをお預けする。」
張遼は、呂布にくちづけた。
「我が、主よ。」





















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