062.指輪<5> 投げられた拳銃が地面を転がって物陰に消えた。 突然の乱入者にその場が一斉に静まる。倒れた者たちの呻き声を除いて。 「…張遼…。」 舌なめずりをするかのように元・若頭がその名を呟いた。 張遼は静かに胴を起こしスーツを整える。 泡を食ったのは夏候惇だ。 「ばっ…張遼!?馬鹿野郎、何で来たんだ!」 張遼はその夏候惇にツカツカと歩み寄ると(途中に転がる者を容赦なく踏み越えて)、その襟を締め上げた。 「馬鹿はお前だイカレ野郎。誰にワンパンくれやがったと思ってんだ?人の許可なくハネてんじゃねぇ!小指の一本や二本で済むと思うなよ?」 下から夏候惇の顔を睨み上げる。 張遼は本気だ。本気の張遼は夏候惇でも縮み上がりそうなほど怖い。 「大体貴様ら古い極道男共は揃って身勝手で馬鹿で考えなしで仁義とかサムライとか言って勝手につとめだ自切りだのと。留守を守るのは誰で、取り残されるのは誰だと思ってんだ!自己満足で恩着せがましく死んでんじゃねぇぞ二度置いていかれた人間が二度立ち直れると思うなよ!?」 怒鳴りながらうっすら潤む張遼の瞳に気がついた。 「…張遼…?」 「とりあえず車の中で決めていたことがある。殴られろ。」 は?と問い返す間も無く張遼のグーが夏候惇の左頬を襲った。グラッと揺れる視界の中、頬を押さえて前傾姿勢でたたらを踏み二歩後退した夏候惇を容赦なく連撃が襲う。肩をつかまれ引き倒されたと思ったら腹に膝が二発。肺と腹への強打に堪えきれずそのまま膝から崩れ落ちた。 肺が急激に圧迫されて息が詰まる。激しく咳き込んだ。 「かっ…ゲホッゴホッゴホッ!」 「やられたら倍やり返す。基本だな。精神的ダメージの分はまた後でな。」 エエ―まだあるの、という顔で夏候惇が見上げる。 涙目だったとかそんな可愛い過去は幻想だったかもしれない。嘔吐感を堪えるので精一杯だ。チンピラの木刀なんか目じゃない。本日最大のダメージだ。 敵サン側だって突然の仲間割れに手を出せず、どうしたもんかとオロオロ見守っている。 「おえっ……お前、そういうのは時とシチュエーションを選べよな…」 「だからこっちのセリフだ。感謝しろ、手加減はしてやったぞ。内臓も骨も無事だろ。」 内臓が破裂するまでまで恋人を膝蹴りってどうなの、とか夏候惇が密かに思っていることは張遼には関係ない。ふんぞり返ってやれやれと腕を組む。 「貴様のせいで薬師寺に作っていた貸しが一つ減ったぞどうしてくれる。」 挙げた名前は現職の国務大臣・国家公安委員長のものだ。いくつも不祥事の証拠を握られていて張遼には頭が上がらなくなっている。ここへ急行するためにパトカーや白バイが邪魔しないよう車内から電話をかけた相手だった。 「まぁおかげで見れたぞ首都高で200キロ。」 「それっ…おま、出しすぎだぞ!事故ったらどうすんだ!」 思わず説教グセを出した夏候惇の耳を思い切りつね上げる。 「…だ・れ・の・せいだ、誰の!!」 「いだだだだ!!」 「…何だ?仲間割れか?終わったのか?」 あきれたような声が上から降ってくる。 二人は同時に振り返った。ぶん殴って二度蹴ってとりあえず張遼の気は落ち着いたらしい。 「…随分待たせてくれたなぁ。だがまぁようやく揃ってくれて俺としては嬉しいね?揃ったってことはこっちの要求飲む気になってくれたってことだろ?」 張遼は腕組みを解かない。 「…寝言は寝て言え。誰がゴミと対等の取り引きをすると思うか。残りの人生に笑顔の1ミリも残してやらんから覚悟するんだな。」 「ほぉー…威勢の良いことだけどよォ、この状態で具体的にどうするおつもりだ?見たところオメーも単身じゃねぇか。道具も投げちまったみてぇだしよ?」 こめかみをひくつかせながらもまだ落ち着いた対応を返すあたり、腐ったチンピラのとはいえ親玉かもしれない。 だが張遼とは器が違う。 「お前こそ随分余裕のようだが、20分後にもそのままでいられるか?」 「ああ?20分経ったらどうだって言うんだよ。テメーの軍隊駆けつけんのか?約束破ったんなら人質の頭吹き飛ばすぞ。」 「私のじゃない。関羽殿のだ。」 突然の固有名詞にザワリ、空気が毛羽立つ。 「何言って…」 「知らなかったか?関羽殿とは古い友人でな。曹操殿に私の助命を望んでくれたのも関羽殿だ。」 動揺が起きる。 夏候惇に殴られる前にかけようとしていた電話の相手、そして車の中でかけた電話の相手は関羽だ。 蝶野と一緒に絶句している者の中に夏候惇がいる。 張遼は憐れなものを見る目で半分振り返った。 「…何も考えずに突っ込んだろ?人が策があると言っているのを聞いてなかったのかこの脳味噌脱脂綿。」 ひどい罵倒だが返す言葉もない。 また半分身を翻し斜めに蝶野を見上げる。セリフだけが笑っていた。 「言われた通り蜀本家にはタレていないぞ?これでいいんだろう?」 関羽は確かに本家の人間ではない。 元はそうだったが大きくなるにつれ弟の張飛と共に独立しそれぞれ分家を構えた。 それでもなお劉備との義兄弟の絆は変わりなく、本家に対する影響力も昔のままと言って過言でない。小さな分家ひとつ、一言で絶縁できるほど。 子供じみた詭弁のようだが、極道間では建前が通っていればそれでいいのである。 蝶野は歯を軋らせる。 「で、関羽殿からの伝言だ。政徳会は今日限りで一家まとめて破門するとな。ついでにお前は絶縁だ。」 全員見事に硬直したのを、張遼は笑むことすらなく冷酷なまでの無表情で眺めている。 「破門ではなく絶縁だぞ。お前みたいな奴にとっては死刑宣告も同様だろうな。頑張れ。コンビニのアルバイトから社会復帰しろ。」 破門とはその組の門を追い出されるということだが、絶縁は極道の世界との縁を絶つということだ。回状が各組に回されて蜀以外だろうと全国どこに行こうともどの組とも関わりは持てないし、何をしても組の庇護は得られない。組織の後ろ盾を失ったただのチンピラの末路など、考えるまでも無い。 不安と焦燥を押し殺すように蝶野は笑った。 「…テはもう一つあるぜ。人質ごと皆殺し。死人に口無し。関羽の兄貴には全部全部デマだったって言い張る。」 腰に仕込んでいた銃を抜き取り、銃口を張遼に向ける。 その銃口が僅かに揺れていることには、幸いなことに本人しか気が付かなかった。 「願望だろ。」 そっけなく張遼が言う。 全てが蝶野の思うとおりに運ばない。リーダーを気取ってはいたがもう限界だった。モタモタしていると自分が危ない。張遼の言った期限に誇張や嘘が無いとすれば猶予はもう20分を切っている。その時間で当初の計画を履行するのは、もう不可能だ。 「オイ、人質連れて来い!計画変更だ、先にバラす!」 全てを無かったことにしてしまおう。そのほうが確実だ。 そう決めて背後を振り返った時。 「沢渡ィイ!!」 とんでもない声量で張遼が叫んだ。 度肝を抜かれた瞬間、後ろ手に縛られていたはずの沢渡が、自分に銃を突きつけている男にメリケンサック付きで強烈なアッパーを食らわせた。弾みで銃が空しく天井を撃ち、横にいた女が高い悲鳴をあげる。アゴから吹っ飛ばされた男は気を失ってピクリともしない。 沢渡は猿轡をむしり取ると女を背後に隠した。 「てめっ…!?」 蝶野と側近が泡を食って身構えた。そちらに警戒しながら、吹き飛ばした男から銃を奪い、女を壁際の物陰に隠す。 実は沢渡はしばらく前に紐を外していて、メリケンサックまでつけて機が来るまでそのまま拘束された振りをしていたのだ。 「こっちは平気です!」 自身も壁際まで下がり叫ぶ。これで、前方からの接近にだけ気をつけていれば防御は完成したと言えるだろう。大体、戦力の大部分は張遼と夏候惇の相手に回るから、こちらを重要視されることはまず無いはずだ。 馬鹿野郎、ちゃんと縛っとかなかったのか、と蝶野は叫び、部下達はうろたえた。しっかり縛っていたはずなのだ。しかもその上散々殴って蹴ったので、安心していた。だから武器の所持すら念を入れなかった。銃や小刀くらいは、持っていないことを確かめたが。 「あいつの親指の指輪、ペーパーナイフより切れるんだ。」 張遼は前を向いたままニヤリと笑った。 「これくらいしてくれなくてはこの張遼の運転手など任せては置けん。」 自慢げだ。 夏候惇が拗ねる。 「…悪かったなぁ。駄目な若頭で。」 張遼は少しだけ振り返った。 「…まぁ、お前はそれでいいさ。」 「あ?」 「行くぞ。」 「行くってお前…素手でか!?」 「そんなアホはお前くらいだ。」 言うと同時に張遼は懐に手を入れ新たな銃を手にする。先ほど投げ捨てた粗末な物とは一見しただけで違う。ハンドガンだが重厚感と鈍い輝きがある。 引き金を引くと、サイレンサーに変質させられた鋭い音が鳴った。 蝶野側は、薄暗い中での乱戦で射撃は出来ない。味方に多少当たろうとも倫理的には問題ではないが、手駒が減るのは問題だ。蝶野は舌打ちし銃口を下ろした。 ああは言ったが勿論不安がないわけではない。夏候惇の強さは先ほど嫌というほど目にしたばかりだし、張遼の噂も聞いたことはある。 蝶野が若頭になる前から、張遼はあの呂布の右腕として有名だった。 あの他人に興味を持たない呂布が餓鬼を連れて歩いていると噂になり、ある日菫卓の屋敷で会合のため人が集まった際、庭先で実際にその様子を見たどこかの組の若い下っ端がそれを揶揄した。すると氷のような顔で黙って呂布の後ろについていた張遼がその男を数秒のうちに完全に沈黙させたのだ。集まった面々はあっけに取られて静まり返った。 同輩をやられて頭に血が上った同じ組のチンピラが何人も踊りかかったが、素手同士の一対多で数分後に立っていたのは張遼だけだった。 それを見ていた呂布はたいそう上機嫌で、ワシの庭を勝手に荒らしおってと怒った義父の菫卓に詫びの一言さえなかった。 蝶野はそれを実際に目にしたわけではなかったが、その後瞬く間に名実共に呂布の右腕として頭角を現した事実があれば、真偽を確かめるなど不要なことだ。呂布は媚びやへつらい、上納金だけで自分の部下を決める男ではない。 悪寒をぬぐうように蝶野はこめかみを伝う汗をぬぐった。 「くそ・・・嫌なこと思い出しちまったぜ…」 暑いわけでもないのに汗がじわりと沸いてくる。 二人は見る見るうちに蝶野のいる2階へ上がる階段へ距離をつめている。張遼が先に立って射撃で道を開き、夏候惇がその背を守る。 人数は倍になっただけだが戦闘力は明らかに倍以上だ。目的に突き進む張遼のおかげで推進力は0から100ともいえる。 銃は十分用意できなかったにしろ、腕の立つ奴ばかりを集めてきたはずだ。なのになんでたった二人ぽっちを仕留められない。悪い冗談のようだ。 二人は順調に階段を上り、細い足場を進んで蝶野のいる二階の事務所部分へ進んでくる。 弱い部下を責められはしない。いくら得物を持っていようと、相手が拳銃では普通及び腰になるものだ。 ジリジリと押されて事務室の中に入り、ドアを閉め鍵をかける。 「蝶野さん、どうしますか、蝶野さん!」 「うるせぇな!ちっと黙ってろ!」 わめく部下に怒鳴りつけて蝶野は頭をがりがりと掻いた。 人に頼ってねぇで少しは打開策でも献上しやがれってんだ! 悪い想像ばかりが頭に浮かんで焦燥感ばかりが募る。 ここで奴らを殺らなかったら、ここで奴らに負けたら、負けて捕まったら…! 破裂音がしてドアが吹き飛んだ。地面に倒れた衝撃でガラスが粉々に割れる。 ドアを蹴破った張遼がゆっくりと室内に侵入して来た。 「蝶野…ここまでだ。」 「…張遼、一人足りない。気をつけろ。」 室内にいる男たちへの宣言は、まさに死神めいていた。後ろで夏候惇が人数を確認している。隙が無い。 「蝶野さん!逃げてください!」 そばのチンピラが叫んだ。 見れば奥にはまだその先へ繋がるドアがある。 こんな奴でも少しは忠誠心のある部下を持っていたのかと夏候惇は感心する。 「逃げても無駄だ。」 冷徹に言い捨てて、ほとんど警戒していないかのような動きで張遼は接近する。 「クソッタレェ!!」 蝶野は身を翻して逃げ出した。 その扉を守るように、姿の見えなかった男が飛び出して立ちふさがる。 手には拳銃が握られていた。 「張遼危ない!」 発砲、同時に夏候惇が張遼を突き飛ばすようにして物陰に隠れる。 夏候惇の手から刀が投げ捨てられる。 半ばヤケのように銃を乱射する男の流れ弾に当たって、刀は二人とは逆方向に弾き飛ばされた。 初めて張遼が血相を変えた。 「お前…ハルキを!傷が付いてたら殺してやる!」 手にあった銃で夏候惇の額を殴りそのままそれを手放すと張遼は迷い無く刀を追って体を起こす。 「張遼!」 夏候惇は慌てて張遼に手を伸ばす。手は空を切り張遼は銃弾の中に飛び出した。 心臓が止まりそうな緊張の中、カチ、カチ、と撃鉄が空を打つ音が耳に届く。 弾切れ、と判断した夏候惇が立ち上がるのと周囲で男達が立ち上がるのはほぼ同時だった。 威嚇代わりに夏候惇は一発だけ発砲する。 突進しようとした男たちの足が一度止まった。 「張遼!」 「わかっている!」 張遼は応えると、ポケットから次の弾倉を取り出して投げ渡し、振り返りもせず蝶野を追った。 刀を得た張遼の代わりに、夏候惇の手に張遼の持っていた銃が収まった。 その感触を確かめるように、一度握りなおす。 呟いた。 「ふん…俺はやはりこちらの方がしっくりくるな。」 夏候惇の片目は生来のものではない。昔の抗争で失った。 組長をかばっての名誉の負傷、後悔は無いが片目になったことは本当に不便だった。距離感がつかめず、攻撃、特に射撃の精度が冗談のように落ちた。 夏候惇は苛立った。銃もロクに使えない男が何の役に立つのか。もう俺はリタイアなのか。 そんなはずはない。 腕の落ちた夏候惇を誰も責めなかったし、誰も馬鹿にはしなかった。ただ、夏候惇を見る目には気遣いと惜しむような色合いがあり、それがどうにも夏候惇を苛立たせた。 だから意地になって、海外まで行って練習したのだ。 射撃を。 大量の弾丸の調達がめんどくさくて、合法で銃を撃てる国まで出かけた。あの時は手といわず全身に硝煙の匂いがこびりついて、街中を歩けなかった。 ゆえに、今、この平和な国でハンドガンの精度で自分の右に出る者はいないと自負している。 「さて…ここから先は一歩も通さんぞ。」 夏候惇は首を曲げて関節を鳴らす。威圧されたチンピラが二の足を踏んだ。 ぱしゅん。 乾いた音が一度響いて、最後尾にいた男が膝を抱えて転がった。 闇の中で、一撃で男の膝を打ち抜いた。他に、誰が出来るだろう。 夏候惇の片目が鈍い光を放つ。 「そして、誰も逃がさん。」 「そこまでだ蝶野!」 暗い中をあちこちぶつかりながら逃げていた蝶野の背後に、張遼の声が突き刺さる。まさに倉庫の出口の扉に手を伸ばそうとした時だった。 振り返ると、遮蔽物の無い一直線上に張遼がいた。ここで撃たれれば、避けられない。だがその手には銃ではなく、先刻まで夏候惇が使っていた刀が握られていた。 何があったのか、瞬時には予測がつかない。 事情はわからなくとも、それは確実に張遼の戦力ダウンのように思えた。 今、蝶野の手の中には逃走中に手に入れた拳銃がある。 「…なんだ?それ夏候惇が持ってた刀じゃねぇか。それ使うつもりか?シロートが振っても大して怖くねぇんだよ!こっちはチャカ持ってんだよ!」 こわばりながらも嗤う余裕が生まれた。 張遼は静かに刀を構えている。 その構えが、よく見ると夏候惇よりも洗練されていて蝶野は目を見開く。 窓から差し込む月光に照らされて、静かに立ち昇る殺気まで見える気がした。 脅しなどまるで聞こえていないかのように、落ち着いた顔で口を開く。 「誰が使えないと言った。」 それは張遼の手にあって伝説の名刀。 名を遼姫、と書く。 「これは元々私の刀だ。呂布どのが私のために打って下さったこの世でただ一振りの刀だ。」 呂布直々に組に加え常にそばに置いたとはいえ、その道に入ったばかりの張遼は何の実績も無いただの中卒のガキ、幹部たちの集まる会合にはさすがに出席できなかった。 そんな時間を張遼は積極的に武力の習得に充てていった。 今まで体育の授業でしか関わったことのなかった、柔道、空手、剣道に加えボクシングや中国拳法など片っ端から手を出した。学校に通わない分、時間はたくさんあった。 そして、自分が戦う才能に恵まれていることを知ったのだ。 元から運動神経はずば抜けて良い自覚はあったが(授業で触れたくらいでそれ専門の部活に入っている生徒を負かしたりしていたのだ)、専門にやってみるとまるで桁が違った。 表立って試合や大会に出ないため、段や位は一切手に入らなかったが、三年とかからずに各道場の師範と互角に戦えるほどになってしまったのだ。 そして誰の止めるのも聞かず、自分でもう十分と思った一点でそれぞれ全てすっぱりと辞めてしまった。 次々と武道を修めていく張遼を、ことさら呂布は喜んだ。 (ちなみに呂布は大して武術の手ほどきを受けたこともないのに、組み手で張遼が勝てたことが無い。) やがて自身の次席揺ぎ無い存在となった時、呂布は張遼のために一振り刀を打たせた。 呂布の元にいた頃の張遼を知っているものなら、必ず張遼と遼姫をセットで思い浮かべる。 「…実は私はこれはあまり持ち出さないようにしているんだ。」 張遼の視線が蝶野から外れ、いとおしげに遼姫に注がれる。 この刀を名付けたのは呂布だ。自分の名前に「姫」という漢字を足されたことに対して当時張遼はひどく恥ずかしがって憤り、いくらなんでも私を“姫”と呼ぶのは悪趣味だ、変えてくださいと呂布に詰め寄った。呂布は笑って、譲らなかった。『違う、お前にとっての“姫”はそいつだけでいいという意味だ。』と。その時は、まんまと納得してしまったが、今考えるとアレはどう考えても半分は当たっている。 「あ?…大事なお宝だから?」 口の中が乾いて張り付く。 蝶野はもはや己の身にまとわりつく敗北の気配に抗えなかった。日本刀対拳銃ではどう考えてもこちらが有利なはずなのに。 嫌だ、逃げ切ってみせる。情けなくとも、多少痛い目を見ようと、なんとか、隙を突いて。 張遼が面白くもなさそうに言う。 「違う。日本刀というのはな、人間の胴体を一太刀で真っ二つにできるように出来ている武器なんだ。戦国時代でもない今の日本で振るうと…少しやりすぎてしまう。」 蝶野の本能が呟いた。 …無理だ。 どれだけ目を凝らしても隙など張遼に存在しない。 張遼は哀れな自分を前にしても、笑っても哀れんでも怒ってもいない。 機械のように冷酷な、完璧な無表情だ。 これから逃げるのは、閻魔大王にだって不可能だ。 「一応聞いてやる。動けないまま生きるのといっそ死ぬの、どちらがいい?」 歯の根がカチカチと音を立てている。向こうまで聞こえているのではないだろうか。 「刃を血で汚した罪は後から夏候惇に負わせるとして。」 す、と張遼の膝が沈む。 完璧な死をもたらす跳躍のために。 美しい死神は宣告した。 「泣け。」 女の拘束を解いた沢渡が、自身の痛む箇所を押さえながら夏候惇のもとへやってくる。 「追わなくていいんですか。ここはもう大丈夫です。彼女と自分の身くらいは関羽さん達が来るまでどうにでもなりますよ。」 「ああん?」 手すりにもたれかかった夏候惇はうるさそうに顔をやった。先ほどまで、蝶野が夏候惇たちを見下ろしていた場所だ。興味なさげにすぐ前を向く。 「平気だろ。…まぁもう少ししたらノビた蝶野運びには行ってやるよ。」 「あの…張遼さん一人で大丈夫なんですか?あの男、銃も持ってましたし…。」 不安そうに、女が初めて口を開く。 夏候惇は煙を吐き出しながら、煙草を持つ手をひらひらと振った。 「ああ、あんたには悪いことしたな。今度改めて何か詫びに行かせてもらう。」 「あの…」 そんなことより、と控えめに重ねて主張する彼女に、夏候惇は笑って煙草を咥え直した。 「ヘーキ、平気だ。あんなザコ、ここの運転手だって素手で負けんわ。」 「・・・。」 その運転手は肯定を口に出来ずにいる。おめおめと拉致られた後なので胸を張ってハイとは言えない。 「それになぁ…たまにはあいつも運動させてやらねーと。あいつ自分で思ってるよりずっと武闘派だからな。」 足下に転がるチンピラの上に灰を落としながら、夏候惇は嬉しそうだった。 沢渡も、どこか誇らしげである。 遠くから、男の悲鳴が聞こえてきた。 おそらく、蝶野のものだ。 女が身をすくませ、沢渡が口を開こうとした。 だがそれは、次いで、計ったようなタイミングで、今度は遠くから車の走行音が聞こえてきたために途中で止まった。1台や2台ではない。 「…来ましたかね?」 どこかお気楽な沢渡の声に、夏候惇もそちらを振り返った。 やがて何十台という乗用車が倉庫の前に停車し、倉庫の中は真っ白に照らし出された。 「いらしたか。」 「張遼!」 明りのと反対側から張遼が一人で現れた。夏候惇の予想通りかすり傷ひとつ負ってはいない。それどころか返り血の一滴すらも浴びていない。 遼姫を片手に携えて、革靴がコツコツと硬質な音を立てていた。 「蝶野は?」 「ピアニストになるのは諦めた方がいい。あと、自力で歩けるようになるのには根気強いリハビリが必要だ。」 その返答に女の顔がなんとも言えず歪む。 夏候惇はそんな彼女を見て、これからも以前と変わらず付き合ってもらえるのかと少し不安になる。 「…まぁ無事でよかったよ。」 そんな気遣いも知らず張遼は嫌そうに夏候惇を仰ぐ。 「まさか心配していたのか?」 「まさか。そんなことしたらまたお前に殴られちまう。」 「ならいいが。」 いつもと変わらない会話に夏候惇は薄く笑って煙草を踏み消した。 車から降りてきた男たちが警戒するように進入してくる。上から沢渡が声を張った。 「大丈夫だ!全部片付いてる!後片付けを頼みますー!」 男たちも、場の静けさと辺りの様子でそれが偽りでは無いことをすぐに判断したらしい。 「一時間で全て片付けろ!一滴の血も残すな!」 「「「うす!!」」」 幹部らしき男の号令で大多数の男たちが駆け出していく。 自分の足で歩いてくる四人の横をすり抜け、動けなくなっている者、逃げ出そうとしている者の拘束と、その他の後始末にかかる。 やがて、黒いベンツから一際目立つ体格の男が降りてきた。その表情は険しく、現場となった暗い倉庫の中を見透かそうとしているかのようだった。 張遼を筆頭とする四人はいったん足を止め、張遼だけが関羽に歩み寄った。両者の顔には笑みが浮かんでいる。懐かしむような苦笑だった。 「わざわざのお出まし、ありがとうございます。」 そう言って几帳面に頭を下げる。 手で制して、関羽は鬼神の形相を解いた。 「いや、今回はこちらの落ち度だ。済まなかった。…久しいな、張遼。息災か。」 「はい、お久しぶりです。関羽殿にもお変わりなく。」 関羽の大きな手が張遼の頬を撫でる。 心地よさげに、張遼もされるがままになっていた。 「…元気にしているか。あれ以来、音沙汰も無いままであったから心配していた。…苦しくは無いか。…倦んではいないか?」 倦んではいないか、生きることに。 張遼を生き残らせるよう進言したのは関羽だった。知己である張遼を理解し慮ってのことだ。 しかし、関羽が曹操と同盟を組んでいる間中の張遼は、組存続のため走り回りながらも空虚な顔をしていた。 間も無く組の同盟も終了したので顔を合わせるのはそれ以来となる。 何かあったら、と連絡先は密かに握らせたものの、虚ろな目をした張遼が聞いているのかも怪しく、親交は途絶えていた。 しかし別れた時とは違い、今はそれ以前のような凛としたオーラが張遼に戻っていることに驚き、また安堵し、ゆるゆると喜んでいた。 「…多大なお心遣いを頂いたにも拘らず、長く音信不通であったご無礼をお許しください。」 「良い。そなたが壮健であったなら何も言うことはない。今の組に不自由は無いか。」 報告したいこと問いたいことはお互い色々とある。 けれどうまく言葉が出てこなかった。 張遼は昔に戻ったように、恥ずかしげに笑んだ。 …その二人の様子が面白くない男が一人。 張遼の背後から左腕を突き出すと肩を組むように自分側に引き寄せた。何も言わずぐいぐいと抱きしめ関羽に片方だけの目でガンを飛ばしている。 同時にあっけにとられた二人だったが、関羽とは対照的に張遼はすぐ笑み崩れた。 ぽんぽんと自分の頭の横にある頭をあやすように優しく叩く。 「…はい。これが甘やかしてくれるので。」 私は大丈夫です。 そう云う張遼の目は優しく、それは以前の張遼にも無かった表情だった。 若さと、情熱と、崇拝と。 幾分欠けてしまったそれらの代わりに、新たな深い感情が張遼に生まれたようだった。 関羽は嘆息する。 良かった。あのまま朽ちていくにはあまりに惜しい魂を持った男だと思ったのだ。 その回復を自分が、と思わないわけではなかったが、関羽の地位と理性がそれを許さなかった。 結果的に、それで良かったのだと思う。 関羽は懐古と感傷を振り切って笑った。 「…しかし派手にやったな。後片付けが大変だ。」 「ほとんどここの馬鹿のせいですよ。私の次席を勤めるのであれば、もっと頭を使ってくれなくては困る。」 張遼は関羽を見たまま、遠慮なく夏候惇の腹を殴った。 |