5.





どこにでもあるような、猟師の小屋。
その小屋の側面に、多少斜めになった小さな畑が作られていた。
畑の境はそのまま森の境目で、日が中天にある今は別として、日当たりはそれほど期待できないのだろう。
それでも多少の実りは遠目にも判る。

小さな畑には、桶から柄杓で水を撒いている者があった。
栗色の髪が、夏の太陽の下では光に透かされて一層赤茶けて見えた。

その、めずらしい色の髪。

「…文遠。」




接近の足音に気付かないはずはなかろうに、名を呼ぶまでその背は振り返らなかった。
右手の柄杓を左手で持つ桶に戻し、そっと振り返る。
ことさら、ゆっくりと。

目線が、確かに絡み合った。

「…お久しゅう、ございます、元譲さま。」

清廉な声が元譲の耳を振るわす。
目の前で腰を折って丁寧に頭を下げるその姿は、忘れるものかと必死で目蓋に刻み続けていた記憶の中の姿と寸分違わなかった。
日に焼けぬ白い顔、栗色の髪、細く鋭いが幾分眠たそうな目、薄青の着物。
そう、身にまとう着物は、綿のない羅(うすもの)になっていた。
月日は、流れたのだ。

「・・・・・・・。」

元譲は何も言えなかった。

「・・・どうぞ、こちらへ…。」

文遠は身を捻り、小さな畑の横に拵えられた長椅子を元譲に勧めた。
木立の影になったその場所は、明るいながらも涼気に富んでいる。

ようやく、長いこと探し続けてようやく会えて本当に嬉いのに、素直に嬉しいと言えなかった。
それは記憶と共に取り戻した、武家としての尊厳だった。

当たり前のように、文遠が隣に腰を下ろす。
同列に並ぶその仕草が、あの時に戻ったようで胸を甘くときめかせた。

「…無事だったのか。」

ようやくひねり出した一言に、文遠は薄く笑って答える。

「はい…怪我は一つもございません。」

「それは…良かったが…」

狼の群れに囲まれて、刀一本を持っただけの人間が無事なはずがあろうか。
元譲が怪訝な声を出すと張遼は顔を上げる。

「おいで。」

張遼が向こうに声をかけると、小屋の裏から低い影が静かに歩み出てきた。
それは灰色の狼だった。

「おい…!」

元譲は腰を浮かすが、狼に襲い掛かってくる気配は無い。
狼は静かに文遠に近付くと、その隣りに腰を下ろした。
おびえも無く文遠はその頭に手を伸ばし撫でた。

「…奉先といいます。
 生まれて間もないところを私が拾い、名付け育てました。
 後に群れの主となり、今でも私に従ってくれています。
 …あの時はこれらが近付いてきただけだったのです。
 騙して申し訳ありませんでした。」

そう、か、と元譲は呟くように返事をする。
怪我は無いか、命はあるのか、肝が潰れるほど心配していた。
夜には文遠が狼に食い殺される夢を見て飛び起きることもあった。
それが、こんなからくりとは。

一瞬怒りも沸いたが、安堵の気持ちの方が強く、それはたちまち消えうせてしまった。

謝る言葉にそれほど罪意が無いのも、彼らしかった。
何か嬉しいのか、それとも可笑しいのか、文遠は薄く笑んでいる。

「…これがいて、大変助かっているのですよ。
 里の人を襲わないようになりましたし、群れの助けで冬場には熊も狩れるようになり生活が楽になりました。」

「…そうなのか。」

「はい。」

いつの間にか、元譲は内容よりも久しぶりに聞く文遠の声を楽しんでいた。

高めの、張りのある涼やかな声。
ら、る、れ、が少し縺れる。

そうだ、忘れていなかった。
覚えていた。
また、会えた。


「…麓の里の者にお前のことを聞いて回ったのだがな、皆口を揃えて知らぬ存ぜぬと言う。
 では捜索を手伝えと言えば、嫌だと言って頑として受け付けない。
 …こちらはどういうからくりだ?」

「…里には、冬以外は狩った獲物ではなく薬を下ろしています。
 実際にはこちらの方が本職です。
 医(くすし)は全ての人々に必要ですが、この時勢、権力者は戦のために民からそれを取り上げている。
 …よそ者の、それも武家衆に存在を漏らせば奪われると思ったのでしょう。
 どうかお叱りは無きよう。」

すました文遠の言葉に、ああ、と元譲は頷く。
そんなことは、しない。
文遠がまだ人と繋がっていたのは、里の者たちのおかげなのだから。

「…これも、体が弱くその上怪我まで負ってもう助からぬと群れのものが見捨てていったところを治療して生きながらえさせました。」

文遠が口を噤んだ。
狼を撫でていた手が止まる。

「…名は、かつての主の名をつけました。」

狼が、静かに文遠を見上げていた。

「…もうご存知なのでしょう?」

背を伸ばしたまま、文遠は前を見つめていた。


文遠、元の名は張遼文遠という。
かつて勇猛で名を馳せる武将の下で、典医だった男。
医でありながら戦場に出ては兵を率いて自身刀も扱い、石(ろく)を持たず常に将の側におり寵愛されたという。
その城は戦乱で落ち、君主は首を取られたが、張遼は見つからなかった。
逃げたのだとか、人知れず後を追ったのだとか細々と噂はあったが、なにせその軍は殲滅されており真実はようとして知れなかった。


名を伝って孟徳が探し出してきた情報は、想像より多少苛烈ではあったが、元譲を打ちのめしはしなかった。
かの折り目正しい立ち振る舞いは生粋の農民にできるものではないと思ったからだ。
何ぞ学のある者だろうと思っていた。

「…殿の最後の命により、死なず逃げ落ちて、誰のものにもならず、こうして一人生きてまいりました。」

「…命か。」

「命無くばどうしてかように生き永らえましょう。
 主の首が落ち、同志から一歩兵に至るまで全滅されたにもかかわらず、臆して殉ずることもせずのうのうと生き続けるほど、仮にも
 武士であるこの文遠、恥知らずでありませなんだ!」

苦虫を噛み潰すようにして吐き出された言葉には、長年押し殺してきた悔恨と苦渋が強かに込められていた。
悟りを得ていたような静かな横顔には、今も戦を見ているような炎が閃いていた。

元譲はその横顔を美しいと思った。

「…ではその命に感謝せねばなるまい。
 生きたお前に俺は助けられたのだから。」

裂帛の気合が込められた顔からふと力が抜けた。
だがそのまま視線は合わされない。


文遠は肯定も否定もせず、背筋を伸ばして石像のように無表情なまま前を向いていた。

張り詰められたその姿を元譲は黙して眺めていた。


風が三度、通り抜けたあと、文遠は静かに言った。

「…終わりにしたかったのかも知れません。」

一目で位のある武士とわかる男を拾い、出自を明かして首を刎ねられたかったのかもしれない。
それが、記憶をなくしてなどおられたから。
躊躇ってしまった。

久しぶりに触れ合う人の手が、温かかったから。

それが、貴方だったから。


「…貴方に、…二度とお会いしたくは無かった。」

予想していたことながらその言葉に元譲は少なからず傷ついた。

「きっと御主君に会えば記憶を取り戻されようことは想像がついておりました。
 貴方ほどの御仁ならば、主を前に己を失ったままということはありますまい。
 そして記憶を取り戻されたあと、どうなさるのかを考えるのがつらかった。」

たばかっていたと憤慨するだろうか。
そのような者に恩を売られたは恥と己を責めるだろうか。
記憶を失っていた時とは考え方も性格も変わって不思議は無いのだ。

いつか、元譲は「恩人を罰したりせぬ」とは言った。
だがそれとはわけが違う。
身元が割れてみれば、せんに敗北した軍の生き残り。
それも、名のある位の者。
討ち取れば手柄になろう、見逃せば罪になろう。

「貴方にとっての私を、ただの文遠にしておきたかった。」

記憶を取り戻したら、代わりに無くしていた時の記憶を失わないだろうかとさえ、願った。

けれど、彼は戻ってきてしまった。
あの時の優しい瞳のままで。

 ああ、きっと彼は苦しんだだろう。

「私の首を、お持ち帰られますか?」

言わねばならぬと思っていた言葉は、するりと口にできた。
その言葉が優しい彼に重荷になるだろうとわかっていても。
だが元譲は小さく首を横に振った。

「…では、曹殿の旗をくぐれと。」

決して自分の腕を驕るわけではないが、その可能性も考えた。
曹孟徳は敗残した軍からも手広く将を集めると聞いた。
奉先の元で特殊な生き方をしていた自分を欲することはあるかもしれない。

しかし、元譲はそれにも首を振った。
強い瞳で問うて来る文遠を、眩しいものでも見るように目を細めて眺めた。

「・・・どうにも・・・せぬ。
 孟徳にも何も言われておらん。
 …どうするかなど、考えておらなかった。
 ただ、お前に会いたかった。」

文遠は虚を突かれて、何かを言い差した口のまま、目を丸くして固まった。
それは初めて見る文遠の驚いた顔だった。

 ああ、この男はまだ俺の知らぬ表情をする。

愛しさがこみ上げてたまらず強くその体を引き寄せた。

初めて抱きしめた時のように、文遠は体は硬くしても抵抗はせずに腕の中に納まる。
文遠の体は、あの時と同じ薬草の匂いがした。

「前の主のことが忘れられぬと言うなら、それでも良い。
 俺にとってはお前はただの山師の文遠だ。」

文遠の困惑が全身から伝わってきた。

「…山に住み、人と多く交わらず野山を歩いて静かに暮らす。
 狼を従えるとは少し変わっているが、容貌も変わっているから特に気にはならぬ。
 む、変わっているというのは変という意味ではないぞ。
 優れていると言いたいのだ。」

付け足して弁明すれば、幽かに笑う気配が漏れた気がした。

「雪のように白い肌で冬の空のような眼をして、春の清流のように涼やかな声で囀る。
 そして、その笑みで俺の心を占めて離さぬ。
 お前は、そういう男だ。」

ふ、と息を漏らす文遠の頬に手を添え、顔を上げさせた。
白い貌がすぐ傍にある。
切れ長の、眠たそうな瞳。
この瞳に覗き込まれ、自分は恋に落ちた。

「お前はそうして生きるが、俺は孟徳に従い平和な世を作らねばならん。」

その瞳が、ふと曇る。
それは元譲にとって耐え難いことだった。

「だから、俺が来たら、また笑って迎えてくれぬか。
 茶を入れ、俺に笑ってくれぬか。」

真っ直ぐに二人の視線が絡んだ。

「そして、元譲、と俺の名を呼んでくれ。」

氷色の瞳が揺れた。




「…いくさで…また失うのは嫌でございます。」

ひとり、残されるのは。

きっと元譲も言うのだろう、お前は死ぬな、と。
残されるものの気持ちも考えず、自分の死に行く辛さに包まれて。
あるいは、死んでも良いと言ってくれるのだろうか。

元譲は揺れなかった。

「戦ならばもうじき終わる。
 孟徳が、天下を統一しこの島国は一つとなる。
 もう誰もお前のような思いをせずに済む世となるのだ。」


命という理由だけで死ぬまで生き続ける、そんな悲しい生はお前に与えぬ。
決して、お前をおいて逝かぬ。
俺と、共に歩め。


「もう一度だけ、俺を信じよ。
 俺は命でなどお前を縛らぬ。
 だから、ただ、頼む。」


文遠は俯き、元譲の着物を握り締めた。

元譲はその白い手にそっと己の手を添える。
着物から剥がし握ったそれは夏だというのに、あの日のように冷たく心地よかった。
あの時、元譲を抱え上げその大いなる懐で庇護を与えてくれた。

その体が、新しく生まれたか弱き雛のように小さく震えていた。

「それでは、文遠は…」

文遠は静かに、涙を流して泣いていた。

氷る薄青の瞳より滴るそれは、二人の間に横たわる最後の氷が、融けて流れ出ていく様だった。


「お越しを、いつまでも、いつまでもお待ちしております、元譲さま……」


























































夏は過ぎ、また冬が巡った。
春が去り、夏は秋を迎える。






ほどなく、曹の旗の下、日本はひとつに統一された。
その傍らにはいつも隻眼の将があったという。
曹軍の筆頭に上げられるこの将は勇猛苛烈にして情に厚く兵にも民にも慕われた。
しかし天下統一が定まったその後に、親類に家督を譲り彼は姿を消す。
どのような官位も褒賞も声も、彼を引き止められはしなかった。



後に、更なる戦を求めて大陸に渡ったのだとか、統一後間もなくいくさ傷が元で世を去ったのだ等、諸説流れることとなったが、
真実は何にも残されなかった。























ただ北方のとある里には、帰らずの森には狼を従え熊をも狩り獲る片目の猟師と万病を治す白き医(くすし)が住む、という民話が、

いつしか寄り添う二神の神話となって、いつまでも語り継がれていた。






























帰還


Copyright©keyko .All rights Reserved.