and... 圧し掛かるような重たい曇天。 真っ白な雪原を汚すように、真紅の血痕が散っていた。 悲鳴のような風が吹き抜け、身を切り裂くような寒さの中で、血を流す傷口は生々しく湯気を立てている。 張遼の腕の中で今、ひとりの人間が血液と共に命を失いつつあった。 「呂布どの、呂布どの……」 呂布と張遼という、圧倒的な力を持つ二つの個体を二箇所に分散させたのは、寺院の命令だった。呂布は抵抗したが、呂布は寺院の将だ。普段規則を破りがちとはいえ、命令に従わないわけにはいかない。 無論それは下策ではない。合理的な判断だ。だがそのほんの僅かな分岐が、ほんの僅かな距離が、二人を決定的に引き裂いた。 戦乱の中、離れていてもわかる呂布の気配が突然揺らいだ。 気付いた時には張遼は自分の戦場を放り出し呂布の元へと駆けつけていた。 戦場に立つ人間は既に呂布だけだった。 雪の上へ崩れ落ちる主の姿を目にした張遼は、その場の全てのものを殺しつくした。 「呂布どの…」 全てを灰燼へと帰し、やっと腕に抱いた愛しい主は脇腹が抉れ、腹の中央に穿たれた穴からは、向こう側が見えていた。 どう見ても、どんな力を尽くしても、もう助からない。 言葉を失った。 張遼のほうが、ただの人間である呂布よりもはるかに長生きをするだろうということはわかりきっていた。 だがそれは今にも訪れる別離のはずではなかった。 運命の人に出会うまで、張遼は何年生きただろう。何百年、何千年待ったのだろう。 そうして、彼と出会って、わずか一年。 長年の渇きが癒える間もない。 ごふり、と呂布は血泡を吹き出した。 うろたえて張遼は呂布の頭を抱えなおした。 「次に…」 もうしゃべるな、とはもう言っても意味が無い。 少しでも彼の残す欠片がほしくてじっと顔を見つめた。 「次に…生まれて、くる時は…お前と同じ、獣がいい…」 張遼は一瞬夢を見た。 二人で共に山を駆け、空を飛ぶ。二人で、きれいなものをたくさん見る。 春には花咲く草原を駆けよう。夏には夜空の星をどちらが多く掴まえるか競争して、秋には肥えた獲物をたくさん狩ろう。冬には張遼の山に帰り、見渡す限りの白が乱反射させる光の中を、どこまでも転がって遊ぼう。自由に生まれた獣は、何ものにも縛られない。ひとつの塊のように寄り添って永劫に生きる。 それは、なんと幸せな夢だろうか。 遠く濁った空を見ていた呂布は僅かに顔を上げ、張遼を見て眉根を寄せた。 「…惜しいな…」 何が、と張遼は目で問う。 呂布は目を閉じ、顔を歪めて笑った。自分を、張遼を嘲るような、底意地の悪い笑みだった。 「俺が死ねば…貴様は自由だ。山に帰るか?それとも…また誰かの飼い猫になるのか?」 その言葉は張遼の心を裂いた。 全てを差し出すと誓った張遼の心は、呂布に届いていなかった。 自分を縛る契約が無くなれば、呂布をひと時の情人だったとただの思い出にして喜んで山に帰るか、さもなくば再び他の人間に忠誠を囁くのだと、本当に思っているのだろうか。 自分たちの間にはそんな脆い繋がりしかなかったと思っているのか。 違う、そうじゃない。 呂布は絶望している。自分と張遼を引き離す死というものの強さに。呂布は嫉妬している。自分がいなくなったあとに張遼の気を惹くすべてのものに ひねくれた主の全てが愛おしく、悲しい。 なんとしても、このまま彼を失うわけにはいかない。彼を失うくらいならば、自分のが自分のものでなくなってもいい。 張遼は静かに目を閉じ、あることを決意して、唾を飲み込んでから再び瞼を持ち上げた。 「呂布どの。」 疲れたように目を閉じていた呂布が、張遼を見上げる。 「わたしの名前は、張遼と申します。」 それは初めて聞く美しい旋律だった。 「…お前…?」 呂布は戸惑った。 獣には、真名がある。真名を知られた獣は、泉の契約の力や、黒い鎖の力がなくともその者に未来永劫、絶対服従となってしまう。だから獣は決して自分の真名を明かさない。真名は、魂そのものと言っても過言ではないのだ。 張遼は真っ直ぐ呂布を見つめている。自分のしてしまったことに本能的に怯えながら、それでも迷いなく呂布を見つめている。呂布が美しいといった、その瞳で。 「呂布どの、張遼です。私の意思で以って、私の真名を呂布どのに差し上げます。」 そうする他に、もう張遼に差し出せるものは残っていない。 「張遼です。どうか、名を呼んで下さい。」 もうあまり時間が無い。 「私は貴方の魂に呪いをかける。死んで私を忘れることを許さない。他の獣のように、死んで終わりになどしない。解放などいらない。」 どうか、この人に伝わって欲しい。 「私はあなた以外に主を持ちません。呂布どのだけが、私の主です。この魂にかけて、お約束する。暗い冥府でも、再び地上に生を受けても、私は貴方と共にある。」 だが、あれほど張遼を欲しがっていた呂布が、すぐにその名を口にしない。じっと張遼の顔を見上げている。 噛みしめられた張遼の唇は、肩に積もる雪のように真っ白になっていた。 どうしたのですか、我が侭な貴方らしくも無い。 わたしの魂を抱えたまま、来世までお連れ下さい。 口を閉ざしていた呂布の手が、ゆっくりと持ち上がって張遼の頬に触れた。 「張遼。」 小さなその音に、体が震えた。 体の中の何か自由だったものが、小さく縛り上げられて、体の隅にことりと落ちた。引きつるような胸の痛みがある。 「張遼、…そうか、…張遼か。」 味わうように、呂布はぼんやりとその名を繰り返す。 胸を押さえて、張遼は微笑んで見せた。 元より、この世の別れに胸は張り裂けそうに苦しい。 「…張遼は、呂布どののお戻りを、お待ちしています。」 何十年でも、何百年でも、この命続く限り。 ようやく、呂布は満足そうに笑った。 血泡にまみれ、顔色は紙のように白い。強い輝きも、獰猛さも、既に無い。だが、同じ寝台で眠りに就く時のような、穏やかな笑みだった。 呂布はゆっくりと目を閉じた。 「…では、しばらくの間…さらばだ、張遼。」 最期に口にした言の葉は、愛しき獣の名前だった。 張遼は、都に残った。 都は国の中心に存在する場所。その中心にある寺院で、国中の気の流れを見張り、彼の人の再誕を待った。 時折、宿代とばかりに僧たちの求めに応えて戦場に立ち、その存在を地の果てまで知らしめた。 張遼が都にいることで、遠方の秘境に棲む名の知れた霊獣、神獣たちが都に現れるようになり、大きな気の流入によって都はいや栄え、寺院は力を膨らませた。 孫堅が老いて死に、彼の息子の息子の息子の…、孫堅の面影がこの世から消え失せても、張遼は寺院で彼を待ち続けた。 張遼は気が長く、待つことには慣れている。 やがて来るというものを待つということは、なんと楽しいことだろう。 時は流れ流れて、いつしか、世では張遼は寺院の守り神という認識になり、捕まえられて他所から連れてこられたなどということは忘れられていった。 不遜にも、張遼を捕まえた男がいたということも。 それは嵐の晩だった。 夏の蒸す熱気の中、昼過ぎから急に空が真っ黒に染まり、昼が夜になった。寺院は魔物の侵攻かと狼狽する民の対応に追われた。寺院は知っていた。これは魔物の侵攻ではない。太古よりしばしば起こってきた、前兆の一種だ。 明るさが戻ることもなく夕方から降り出した雨は、夜になっても止まずいっそ激しくなり、大河の氾濫に備えて政府は軍の派遣を決めた。 張遼は泉の大岩に座し、瞑想したまま動かない。 張り詰めた大気に、首筋の毛がざわざわとしてどうにも落ち着かない。 張遼は、国一番の龍気の噴き出すところ、国一番の聖地に居座り続けて、よりいっそう美しく強い獣になっていた。 人間たちの不安と恐怖を散々に煽り立てた夜。 寺院から遠く離れた西の山の上で、一本の稲妻が光った。 赤い雷が漆黒の空を切り裂いた。 膨大なエネルギーが大地にぶつかる。まばゆい光と、隕石が落下したような地響きが起こった。 雨は落雷と同時にぴたりと収まり、濡れそぼっていたはずの山は炎の塊と化す。 墨のように容赦のない黒の空が、曼珠沙華の色に燃え上がる。 張遼は、瞑想したまま気脈に同化して、エネルギーの暴れ狂う山火事の中をじっと見つめていた。いや、探していた。 やがて、張遼の限界まで伸ばした気の先端が、炎よりも熱いものに触れる。 張遼は立ち上がった。 ああ、ついに。 張遼には、素晴らしく長い尾がある。 光を受けて真珠色に輝く見事な毛皮と、高貴な黒斑がある。 冬の空を凍らせたような氷色の瞳がある。 不吉に焼かれる西の夜空をその一対の瞳で見つめて、その黒と赤の世界に、張遼は確かに愛しい産声を聞いた。 結。 |