ice/beast




 張遼には素晴らしく長い尾がある。
尾の先ではいつも音のない炎が燃えていて、それは周囲の雪を少しも溶かしはしないのに、集まってくる凍えた動物たちにしっかりとした温かさを与えることができる。
いつもは高い雪山に住んでいるが、時々気まぐれに麓の森まで下りてきて、力弱い小さな動物たちと触れ合った。
彼はほとんど豹のような姿をしていて、氷のような色をした瞳は全てのものを射竦める眼力を持っていたけれど、彼が何かを口にすることも、いたずらにその力を見せびらかすことも絶対に無かったので、小さな動物たちも彼を恐れずただその温かさをもらいに集まった。また彼の前ではどんな動物も争いを起こさなかった。
陽に当たると真珠のように淡く輝く極上の毛並みとその神の炎は誰も彼も惹きつけた。

 張遼を捕まえようと、多くの人間がやってきた。
けれどそれに成功した者は一人もいない。
人が主戦力にするのはそれぞれの契約する使役獣だが、人が連れてきた使役獣はその本性に従ってことごとく張遼の前に膝を折り、戦いにもならなかった。
したがって人は己の力だけで張遼に追わねばならず、それには人は非力で、のろま過ぎた。
ゆえに人は張遼を神獣と呼び、いつしか手の届かぬものとして距離を置いた。
張遼はそれにとても満足していたというのに。





 ある日ある男がやってきた。
それはずいぶん久しぶりにやって来た捕縛者だった。
森の終点で馬をつないだその男は、雪原を荒々しい足取りで歩いてくる。視界をさえぎるもののない白い世界で、おそらくまずは張遼の存在確認でもとりあえず目的としていたのだろう。背に大振りの弓を携えただけで辺りを見回しながら堂々と歩いてくる。
張遼はすぐそばの山の頂からそれを見下ろしていた。山ふたつ向こうまで見渡せる張遼の視力をもってすれば、人には遥かかなたとも思える山下にいる男とてその顔すら認識するのは難しくない。
立派な体格の男で、口をへの字に結んで、整ってはいるがいかつい顔をしていた。
たいした興味もなく眺めていただけだったのだ。
冬には珍しくとてもよく晴れた日だった。
雪山を渡る重い音のする風以外は、その男の足音しかない世界。
見渡す限りの白い雪が、強い太陽の光を反射して網膜を焼かんばかりに輝いていた。
そんな光の中で、そんな人間には不可視のはずの距離で、だから、気のせいだと思ったのだ。
男と目があった、なんてことは。

 気のせいだと思った。
けれど首の後ろの毛が何かを感じてぞわりと逆立った。丸い耳がぴんと立った。自分自身にも理屈の分からない、張遼の獣の本能がただならぬことが起こったのだと告げていた。
そして、男は笑ったのだ。
張遼よりも獣じみた、闘気そのもののような笑みだった。
その瞬間、男が急に太陽ほども輝いて見えて、張遼はこらえるように何度も瞬きをした。
あのように無邪気に、そして獰猛に笑う生き物を、張遼は見たことがなかった。
男は間もなく何事もなかったかのように元来た方へと戻っていく。
もとより、距離としてはお互い豆粒ほどにしか見えない距離だ。目があったのは気のせいかもしれない。
何かの予感に張遼の精神はひどく乱れた。
それが吉兆ゆえか凶兆ゆえか、張遼にはついにわからなかった。



 それから、ひと月も経つ。
男は現れたその晩から、昼夜構わず張遼の捕縛に乗り出した。人間にしては恐るべき気力と体力で張遼を追いかけまわし、時には罠を張り、時にはヤケになって果たし合いを申し込んだりしたのだが、張遼にはいささかも堪えなかった。
ただ興味深くはあったので、張遼は男の手が届かないぎりぎりそばまで近寄ってはひらりと身をかわしたので、男にこの性悪が、と怒鳴られたりもした。
実際、男は張遼の興味を引いて余りあるほど特異な人間だった。
並みの人間よりずば抜けて素早く力が強く、体も大きくて素晴らしく勘が良かった。
何やらそれなりの蓄えは持参してきたようだが、一度も里へ下りずに中腹にある森の中で一人で野営している。
よそから来た人間は大抵環境についていけずに倒れてしまうほどの高い山だが、体調を損なう様子もなく、遭難もしない。
もしかしてよほど知恵のある者かと思えば罠はひどく稚拙で、やはりただ野生的なのかと納得したりもした。
大型肉食獣のような男で、もしかしたら普段は満腹時くらいはおおらかなのかもしれないが、今は張遼を捕まえるという目的のために常にギラギラしていて、おかげで森の動物たちがずっと落ち着かない。


だが、いくら並外れて丈夫とはいえ、ひと月も動物さえ凍える雪山で野営続きとあっては、やはり限界がくるのだ。
体力と、気力と、体温。その全てが足りなくなった時、生き物は死ぬ。
そう、今のように。


 死ぬのか、と張遼は思った。
男は太い松の木に背をもたれるようにして寄りかかり、四肢を投げ出してわずかに呼吸をしている。
あたりはすでに薄暗い。このままひと晩過ごせば永遠に体温が戻ることはないだろう。
神獣である張遼には死は遠いものだ。殺されれば死ぬだろうが、疲労や飢えはおそらく張遼の命を削らない。そして張遼を害することのできるものなど滅多にいない。
あれほど張遼の凍った心を揺さぶったものがこんなにも呆気なく消えていく。
張遼はなんだか悔しかった。
自分の予感を外されるような気がして。いや、予感ではないかもしれない。自分は期待していたのかもしれない。この男が生に飽いた己に何かをもたらしてくれるのではないかと。
淡い失望と落胆が張遼にのしかかっていた。そのような気分になることすら久方振りで、張遼は自分を持て余していた。
張遼は全く獣の動きで男に近寄った。
つま先から、その体の匂いを嗅いでいく。鼻を寄せても男はぴくりともしなかった。
やはり死ぬのか、と思った。
男がゆっくりと目を開いた。
その力を使うだけで力尽きるのではないかと思った。
至近距離で視線が絡む。
男は驚いたようだった。いくらなんでも接近には気付いていただろうに。何に驚いたのだろう。
そう思っていると、薪がはぜるように男の瞳に強い生気が蘇った。
口の端が凶悪につり上がり、犬歯までが剥き出しになる。
張遼は逃げなければ、と思った。逃げるために四肢に力を溜める。後方に跳びすさる体勢は瞬時に出来上がった。
だが体が動かなかった。
頭の命令が体に届かない。
男が笑う。口を開く。
「捕まえたぞ。」


 食われる!
捕まる、ではなく食われる、と思った。
張遼が跨いでいた男の脚が振り上がる。
動作をきっかけに呪縛が解け後方に跳ねたが間に合わない。張遼の下顎を男のつま先が蹴り上げた。
脳を揺さぶられ張遼は体勢を立て直すのに失敗して倒れ込む。
大型肉食獣によく似た体を持つ張遼の体重を考えれば、人間がその体を蹴り飛ばすなど有り得ない。
だが男は後方に跳ぶ張遼の力自身を利用してそれをやってのけた。
今にも死にそうだった男がだ。
やられた。
すぐに身を起こすと二・三歩よろけたもののそれだけで持ち直し再び駆け出そうとした。だがその僅かな間は致命的だった。
男の大きな手が張遼の喉元に食い込む。手は握り潰さんばかりの力で張遼を締め上げる。張遼は爪を剥き出し一度だけ反撃を繰り出した。
締め上げる腕を両方の前脚で引っ掻くように振り下ろす。
男の腕などそれで肉は削げ骨は砕けるはずだった。
だがまたしても張遼の体は言うことを聞かなかった。力が入らない。本気で攻撃できない。爪は肉を多少抉っただけだった。
それでも十分重傷なはずだが、男の手は揺るがない。
酸欠で気が遠くなる。
男はもう片方の手で張遼に頭から大きな袋をかぶせた。
袋の中はなんだかとても嫌なにおいがする。
手を離された張遼は逃げ出そうと暴れる。だが一瞬遅く袋の口は縛り上げられた。
男は張遼を担いで立ち上がる。
「ふはははは!ついに捕まえたぞ!この俺が!」
暴れ続ける張遼を観念しろ、と袋の外から殴ると男は張遼を担いだまま馬へ向かってほとんど突進する。
鞍に跨り張遼を懐に抱え直すと野営の荷物などひとつも持たずに馬の腹を蹴った。
馬は素晴らしい速度で駆け出した。
袋の中につけられていた強烈なにおいに気を遠くしかけながら、張遼は暴れるのを止めていた。
男の言葉に従ったわけではない。
張遼は自分を待ち受けている運命を感じていた。
この先で何かが自分を待っている。
そして、とっさのところで自分を拘束したもの。
その正体に張遼は気が付き始めていた。









 馬は休憩を挟みながらも一昼夜駆け抜け、更に船を使って驚くほどの早さで都へとたどり着いた。
通行人を蹴散らさんばかりの勢いで大通りを駆け抜けて、都の中央にある大寺院へ到着した。男はおよそ疲れを知らぬ体さばきで馬から降りると張遼を担いで中へと入っていく。
ひと月ぶりに帰ってきた男を見て、またその男が異常に大きな袋を担いでいるのを見て、人々が派手にざわめく。
もうずっとじっとしている張遼には、袋の中からそんな気配を察知する余裕があった。ひどいにおいにも大分慣れて頭もはっきりしてきている。
男の歩みはなかなか止まらない。
走ってくる足音が聞こえて、呼び止められても男の速度は衰えなかった。
「呂布!戻ったのか!」
張遼は初めて男の名を知った。
「その包みはまさか、捕まえたのか?」
「ああそうだ。泉を使う。」
駆けてきた男は呂布と並んでいる。信じられない、とひどく驚いているようだった。

 騎士と呼ばれる戦う人間は、捕まえた獣をある特殊な泉を使って使役獣とする。
泉に投げ入れ呪文を唱えると、獣は魂と肉体を縛られてその騎士に服従するようになる。いったん儀式が成功すると、その契約は騎士が解除するか騎士が死ぬまで有効になる。獣は自らの意志で騎士を害すことができないので、その泉は一方的で、人間側に有利だ。
ただ、契約の際、騎士の力が獣を御するに足りない場合は儀式が成功しないこともある。
また、使役獣となった獣は人語を操れるようにもなる。
張遼を捕らえに来る人間はまずそれが目当てだ。
強力な獣を従えているということはただ戦力の増強というだけでなく、ステイタスでもある。神獣と呼ばれる張遼ならそれもいかほどか。
水のにおいが濃くなる。
無造作に張遼は地へ降ろされた。袋の口を縛っていた紐をほどこうとしている。
「本当にあの神獣を捕まえたのか?一人で?」
呂布でない男は悪意無い程度に疑っている。本当に信じられないのだろう。
「当たり前だ。見ればわかる。」
口が開いて新鮮な空気がもたらされた瞬間に張遼は袋から飛び出した。
「うおっ…!」
男達の間を電光石火ですり抜けそばにあった巨大な岩の上に跳躍した。
「糞っ…」
呂布が歯ぎしりする。だがすぐに笑った。
「曼珠沙華の袋の中に2日も入れられてあれほど動けるとはな。さすがに、面白い。」
「曼珠沙華ってお前…!」
張遼は眼下を見下ろす。
魔力を持った泉はほの淡く光っている。
泉があるのはこの寺院の中央の、おそろしく天井の高い広間だった。
元々泉があった場所に寺院を築いたのだろう。できるだけ元あったそのままの形で泉を残そうとされたらしく、周囲には自然の草木が適度に手入れされつつ生い茂っている。張遼が今踏みしめている岩もそうして残されていたのだろう。人が運んできたものとは思えない。
「ほう…!」
張遼を見た名を知らぬ男が感嘆の声をあげた。
泉の光を浴びて張遼の純白の毛並みは真珠色に輝いている。背に散る斑模様は高貴ですらあった。尾が緩やかに波打ち、静かに燃えている。
そして高みから見下ろすその目は、万の生物を跪かせる力を持っていた。
「…これは見事だな…!俺に譲ってくれないか?」
「寝言は寝て言え。」
呂布はじゃらっ、と黒い鎖を手にする。
「それに、お前では無理だ。」
鎖を張遼へ向かって投擲する。
張遼に避けられない攻撃ではない。軽く跳んでかわす。
だが鎖は空中で生き物のように方向を変え張遼の首と左脚に絡みついた。
「古代から泉に備えつけられた神仙の鎖よ。逃げられんぞ。」
呂布はまた笑う。舌なめずりをせんばかりに。
左脚の鎖はなんとか自由なもう片足で外したが、首のほうが抜けない。異常に頑丈で引き千切ることもできない。鎖に力が吸い取られていく。四肢を踏ん張ったが、引きずられてしまう。
「グルァ、ア……!」
初めて張遼は低く鳴いた。
こんなのはずるい。他人の力の篭った道具を使うなど。
力の限り抵抗しても、じりじりと敵わない。こんなのは違う。雪山で張遼の動きを止めた時とは、全然違う。
だが呂布は構わず弾みをつけて勢い良く黒い鎖を引っ張った。
「沈め!!」
遂に張遼の体は宙に浮いた。
弧を描いて泉の方へと落ちていく。
張遼は呂布を睨みつけた。
『…思い通りになどさせぬ!』
水面に落ちる寸前、叫んだ張遼の体がぐにゃりと歪んだ。
激しい音と水柱を巻き上げて白い獣は湖に沈んだ。
水しぶきを避けた男が再び呆然と問う。
「おい、アイツ、今しゃべらなかったか?」
「……。」
呂布は応えず水面を睨みつけていた。
しゃべっただけではない。隣の男には見えなかったようだが、あの獣は落ちる寸前に歪んだのだ。
何か普通と違う。
突如泉が爆発するかのように発光した。青白い光とともに超音波のような音と爆風が押し寄せる。
「おおっ……!?」
吹き飛ばされそうになって男が叫ぶ。呂布も丹田に力を込めてそれを堪えた。
泉が獣の中の理を書き換える時に光と風が起きる。抵抗力が大きいほど泉は大きな力を使って押さえ込むのでそれらは大きくなる。だが虎一頭を投げ入れたとしても一瞬泉が光って風もあるかないかの微風程度だ。
白の中にほんの少しの青色が混ざった光。熱量は無いのにあたりを焼き尽くしそうなほどの光量がある。
吹き飛ばしそうなそれは中々止まない。
台風のような強風に抗って呂布は契約の呪文を叫んだ。
常人ならば呼吸もままならないような突風を前に、呂布は腕で顔を覆いもしない。
風と耳を塞ぎたくなるほどの音に負けじと声を張り上げている。
長い呪文が続くごとに、光と風は弱まっていく。あの神獣の力を呂布と泉の力が押さえ込んでいるのだ。
男は固唾を呑んで見守っていた。獣も、呂布も、桁が違う。
「…呂布奉先が命じる!下れ!」
呪文と言うよりも喝に近かった。
同時に弱まっていた光が吸い込まれるように泉の中へ消えると、今度は静寂が訪れた。
「……。」
待つこと、しばし。
水面に小さく波が生まれた。

 だが、水の中から顔を出したのは、白い獣ではなかった。
栗色の長い髪を垂らした、色の白い若い男だった。
「は…!?」
今度ばかりは呂布も驚きに口を開けた。
泉の中から現れたそれは一歩一歩階段を登るように姿を表す。
やがて一糸まとわぬ姿の全てが水上に現れた時にはそれは水面に二本の足で吃立していた。
不機嫌な呂布の目とそれの氷色の瞳がぶつかる。
二人はしばし見つめ合った。
「…何だ貴様は。」
「よくも無様に叩き込んでくれたな。」
同時に口を開いて呂布が片眉を釣り上げる。
呂布は手にしていた黒い鎖を巻き上げる。ちゃり、と現れたその先には何もついていなかった。
「…お前があの白い獣なのか。」
髪の水分を絞っていた手が一時止まり、傾いだ首から目線が寄越される。
長い睫が瞬くと腰のあたりから長い尾がするりと伸びた。見覚えのある、黒い斑点のある白く長いそれ。先端では赤い炎が燃えていた。
呂布は笑った。張遼の動きを竦ませるそれではなかった。
「ではお前が俺の随獣か!」
手に溜めた水をびしゃっと呂布の顔にぶつけた。
呂布は水を滴らせてぽかんと見返した。
髪を放り出して不機嫌に腕を組んだ張遼は斜めに呂布を見上げた。
「誰がなるか。」

 「なっ…何だと貴様今儀式も済ませたではないか!たわけたことを抜かすな!!」
「礼も義もない暴力が何の儀式なものか。私は貴様など主などとは認めぬ。」
「この…っ、」
呂布の凄まじい怒気は張遼の体をすり抜けていくばかりだ。張遼は何の恐ろしさも感じない。
つんと顔を逸らして、呂布の般若面を見る気も起きない。
呂布は怒鳴る言葉を探している。
不穏な沈黙を破ったのは傍観していたというか、二人に忘れられていたもう一人の男だった。
「どちらの主張もわかった。わかったから。」
どこか面白がるような、落ち着いた声だった。
「とりあえずこれでも羽織ったほうがいいと思うぞ。人が集まって来たし中にはご婦人もいる。」
言って己の赤い外套を張遼に差し出した。
張遼は全裸だ。獣形から変化したのだから当然ではある。
鍛えられた長身は同性なら嫉妬しそうなほど理想的な体型をしていて、恥ずかしがって隠すようなものは何もないようにも思えたけれども。
更に飛び抜けて体格のいい呂布には何とも感じられないかもしれないが。
「ああ、これはかたじけない。」
素直に手を差し出して張遼はそれを羽織った。
「きれいなものでなくて悪いな。俺は孫堅だ。お前は?」
「あー、私は、」
「待て!貴様は文遠だ!今日から貴様の名前は文遠だ、いいな!」
孫堅と張遼の間に呂布の手が差し込まれる。
「伝説の大将軍の字だ!文句はあるまい!」
呂布はふんぞり返った。
ずっと考えてあったらしい。
主は随獣の名前をつけていいことになっている。新たな名前を与えることも契約の一部だ。
獣は自分の本当の名前を決して明かさない。それを使われれば泉の契約など必要なく絶対服従となってしまうのだ。
文遠、と張遼は口の中で新しい名前を転がした。
「ふむ、悪くないな。名無しも不便だしそれは使ってやるか。」
「なかなかいい名前を考えたではないか。呂布にしては。」
「ああ、やはり人の間でもそういう評価の男なのですな。」
「うむ、まぁこれだけ武に特化した男だからな、仕方がないといったところだろう。」
呂布の血管が切れた音がした。
「貴様等ァアアーー殺す!完璧に殺す!骨の一欠片も残してやらんから覚悟するがいい!!」
孫堅はハハハと笑って、張遼は笑いもせずその腕を避けた。
爆音を聞きつけた僧兵が、ようやく駆けつけてくる。






 それから、張遼の住処は都の中心、大寺院の中となった。
呂布は実は将軍と呼ばれるほどの地位にいる人間で、とりあえずその随獣とされる張遼も破格の待遇を得た。…あんなに長いこと一人でふらふらしていたくせに。
この国の最高機関である寺院は、魔物から人々を守るということが第一目的で、政治はその下の機関である国府が行う。
それゆえに寺院の所属者に求められるのは志と武、粗野ではあるが俗物ではない呂布もその地位に就けたのだろう。
そして、ゆえに平時の寺院はどこかのどかであった。


 張遼は翡翠色の着物の袖を組んだまま、陽の当たる廊下をのんびりと歩いていた。
身に付けるものをひとつも持たない張遼に、地方の名家の出身で金に苦労していない孫堅が色々用意しようとしたのをはねのけて、呂布はこれでもかと一級の品々を与えた。
張遼は呂布の言うことなどひとつも聞かなかったが、呂布はあくまでも自分の随獣として扱いたがった。
どう思われているかはともかく、張遼は贈り物はこだわり無く全て受け入れた。
最上は自分の毛皮だとは思うが、最高級の絹というのも毛のない素肌には心地よかった。
張遼は元々人間に変化できる生き物だった。生まれた時に人間だったのか豹であったのかはもう自分でも判然としない。ただ張遼にはふたつ形があったのだ。
昔は半々で過ごしていたような気がするが、生きていくのに獣の姿のほうが楽だったのでそちらの比重が高まった。ように思う。
泉へ落とされた時には泉の力に染まる前に人型に変化して、できた隙間から抜け出したので儀式が完成しなかった。また、呂布が契約しようとしたのは獣の姿の張遼なので、張遼の肉体は呂布との契約をくぐり抜けて自由なままだ。再び獣に戻ることも更に人型になることも誰にも邪魔されない。
だが魂のほうは中途半端に捕まってしまった。
さすがは太古より伝わる神秘の泉の力と言うべきか、身の内に一端取り込んだ生物をただで逃しはしない。
張遼は魂だけ呂布に縛られて、そのそばから離れられない。
いや、肉体は自由であるので離れられないことはないのだが、離れたらおそらく呂布のことが気になって気になって仕方がなくなるのだと思う。本能のレベルから不安で心細くて呂布のことが心配でたまらなくなる。
そんなのはまっぴら御免だった。
まだ常に気配を感じつつ同じ屋根の下にいるくらいのほうがいい。
本当の随獣は主の声が届かぬ範囲にすら行きたがらないので大分破格だとは思うが、不本意な束縛には違いない。
呂布の気配はどこにいてもすぐに伝わってくる。
契約すればそういうものだとは知っていたが、そうでなくともきっと呂布のはわかる。
それほど呂布という男は生命力と音を纏っていた。
 ああ、また来る。
張遼は一歩ずつ近付く気配と音を感じた。
午前の鍛錬が終わったのだろう。呂布は武術の鍛錬だけは欠かさない。
追いかけられていることを知りながら、張遼の足は違う場所へと向かった。


 「…なんで貴様はここにいるのだ。」
呂布は張遼を見つけて不機嫌極まりなかった。
ぱちん、と張遼は黒い石を盤面に置く。
「見た通り、碁を教えていただくためですが。」
しれっと答えられて呂布はこめかみをひくつかせる。
いつもなら怒鳴り散らすところだが、この数日で呂布はいくら自分が怒鳴ろうとも張遼には全く効果がないのだということを学んでいた。
張遼の向かい側では孫堅が「おっ、そうきたか、なかなかいいぞ」と嬉しそうだ。
「…お前は俺の随獣だろうが。なんで俺についてないで孫堅などと一緒にいるんだ。」
「あなたの随獣じゃないからでしょう。あ、なるほどそうなるのか。」
「うむ、ハハハどうする、追い詰められてきたぞ文遠。」
ぞんざいな扱いにカッとなった呂布は碁盤を蹴り上げた。
「いい加減にしろこの阿呆どもが!孫堅貴様もだ!人の随獣を馴れ馴れしく呼ぶな!遊ぶな!叩き斬るぞ!」
張遼は心底嫌そうな顔をして呂布を見上げた。
「…心が狭いんですね。」
こんなのに魂を持っていかれているとは考えたくなくなる。
呂布は言葉に詰まって乱暴にきびすを返した。
「いいから行くぞ文遠!飯の時間だ!」
特に約束していたわけでも、一人で飯が食えないわけでもないが、呂布は毎回食事の時間になると張遼を迎えに来る。張遼は乗り気ではないが特に断らずその誘いには乗る。獣型でいる時は食事自体ほとんど必要がないのだが、人型でいると腹が減る。
孫堅に失礼します、と断ってから席を立った。
呂布について廊下を歩きながら、雪山で見ていた男とこの男は実は別人なのではないかととりとめもないことを思う。
雪山で見ていた男はあんなに生き生きとして的確に狩りをこなしていたというのにここで接触して知った呂布はまるで不機嫌な子供だ。
「…どいつもこいつも気に入らん…」
「…孫堅どのはいい方だ。」
「どこがだ!阿呆のように懐いているとさらわれるぞ!」
「最初に私を攫ったのはあなたではないか。」
呂布は舌打ちして口をつぐむ。
「大体私を攫ったところであなたを殺さないと新たな契約を結べませんからな。あなたが背後に気をつける方が先というところだ。」
だが呂布は鼻で笑った。
「面白い。この呂奉先の隙を突けるものなら突いてみるがいい。」
むっ、と今度は張遼が口を結んだ。
確かに、この男を襲うなら相当の手練れか、よっぽど人数を集める必要がありそうだ。
「…あの時雪山で見捨てておけばよかった。」
ぽつりと背中に向かってこぼれた言葉に、ようやく呂布の大きな背中が振り返る。
「…なんだ、ずいぶん今更なことを言うんだな。」
張遼は恥ずかしくなって顔を背けた。



 呂布とは食事の時間くらいしか一緒にいようとしない張遼だったが、唯一自分から進んで呂布の姿を見ようと現れる時がある。
呂布が実戦組手を行う時間だ。
大抵の者では相手にならないから一対多形式になる。
雪山で張遼がつけた腕の傷は肉が抉れた重傷だったが、寺院で作られる霊薬によってもう蚯蚓張れ程度でしかない。
棍棒を振るう呂布の腕には元通りの力が漲り、体さばきのどこにも違和感はない。
元々は棒よりも重いものを得物としているのだろうことに張遼は気付いたが、それでも達人と呼ばれる以上に巧みに操っている。
多方向から突き出される敵の武器を絡めとり吹き飛ばし、無手になった敵を追撃する。たださすがに大人しく殴られるような面子でもないから、決着はつかず組手は長く長くなる。
それは呂布のための鍛錬というより他の者たちが多数で一を追い詰める時のための訓練という意味合いの方が強いのかもしれない。実際見事に息のあったコンビネーションで攻撃・退避を繰り返している。
それでも最終的に勝利するのは呂布なのだから桁が違う。
呂布と一対一で斬り結ぶことができるのは寺院に一人もいなかった。
彼らと対峙した時の呂布は少し目が輝く。少し笑う。
最初に張遼に見せた笑顔の何分の一か。
張遼は気付いた。呂布が純粋に力のみを楽しみに生きる男だということに。
より強い敵を得ること、それを撃破することだけを考えていたい生き物なのだということを。
それを考えるとなんだかむず痒くなる。
呂布がいかほど自分を望んでいるのかわかるからだ。
あの時見せられた笑顔は呂布のありったけの、全ての感情だったのだ。
惚れられたものだ、と思う。
頬杖をつきながら、楽しそうに棒を振り回す呂布を眺めているのは悪くなかった。
呂布が少しだけ解き放たれた顔をするからだ。
あの男は人の中にいるのはふさわしくないように思う。
つくづく物騒なことだ。

 組み手が始まった。
始まってすぐ、張遼はおや、と思った。
呂布がいつもより本気で相手を叩きのめし初めたからだ。
いつもは自分と、相手の訓練のために力をセーブして戦う。そうして長時間の戦闘訓練にする。
しかし今はその手加減が一切なかった。
得物はただの棒きれとはいえ、呂布の力で振られれば打ち所が悪ければたやすく死ぬ。
対戦相手たちも常人修行を積んだ騎士たちであるから、なんとか自分の命くらいは守れるが、ともすればそれも危うい。
雷光の速さで突き、振り下ろし、防御する。
その足さばきは激しい舞のようだった。
「今日はなんだかすごいな。」
いつの間にか横に現れていた孫堅が張遼に話しかけた。接近に気付かぬほど熱中していた自分に驚きつつ、そうですね、と生返事を返した。
呂布の目が輝いている。呂布の体から吹き出している闘気が心地よかった。
呂布と目があった。偶然ではなく明らかに張遼を見ていた。
最初は多数を相手に随分と余裕のあることだ、と呆れていたが、それにしては回数が多い。
「どうするんだ?」
「はい?」
尋ねられて孫堅を仰ぎ見た。
はい、って…と呆れたように孫堅は片眉を下げる。
「あいつ、誘っているだろう。」
言われて張遼はきょとんとしてしまった。
ああ、やたらとバシバシ視線を感じると思ったら、そういうことか。
張遼は再び頬杖をつく。
じれた呂布は闘気を張遼にぶつけ始めた。目に見えない気流が張遼の脇をすり抜けていく。
それでも張遼が動かないので呂布は対戦相手に当たり始めた。あまりに容赦がないので孫堅あたりはいっそ可哀想になる。

 意外に呂布は我慢強かった。
挑発に乗らない張遼に苛立ちながらも組み手を続ける。
だがやがて誰の目にも明らかなほど張遼に向けて戦うようになった。ほとんど顔を張遼に向けたまま戦う。
それでもまだ張遼は興味なさそうに頬杖をついて、出来の良くない芝居でも見るかのようだった。
その時、呂布と戦っていた僧兵が事態の馬鹿馬鹿しさに我慢が出来なくなって足を止めた。棒を構えている手の力をわずかに抜く。
無理もない。いくら稽古をつけてもらっている側とはいえ、ちっとも真剣に戦わない敵相手にこちらだけ戦意を高く持ち続けるのは屈辱ですらある。
だがその時、呂布の気配が変わった。
呂布の眼球がぐるりと僧兵に向けられ、彼は硬直した。
彼の目がやっと追える速度で呂布が振り返る。
呂布から吹き出したのは殺気だった。
離れた席で張遼は身を乗り出した。
「貴様…どういうことだ。どれほどの腕があって挑むのをやめる。」
僧兵は慌てて棒を構え直そうとした。だがすでに遅い。
呂布の得物が防御も回避もできない速度で襲う。なぎ払われて僧兵は吹き飛んだ。
残りの数人に一様に緊張が走る。呂布が、切れた。
獣のような咆哮を上げる。
「己惚れるな雑魚どもがぁあ!後悔させてやるぁああ!」
棒を握りなおすと再び敵を薙ぎ払う。かろうじて棒を盾にしたがその威力に手が痺れる。出来た隙に強烈な突きが来る。鎖骨が折られた。
一人が吹き飛ばされると、あとはもう順番に一人ずつ仕留められていくだけだった。
いくら彼らが鍛えぬいた精神力と戦闘力・戦闘技術でもって対応しようとしても、ほとんどが無駄だった。
子供のように自制が利かないのに、呂布は戦闘では最強なのだ。
あっという間に決着がついた。
積み重なり散らばった人間の中心に、一人呂布が立っている。裸の上半身は上気してうっすら汗をかいている。立ち上るオーラが見えるかのようだった。
いったん途絶えていた視線の挑発が、再びなされた。
高められた本物の殺気を乗せて。
瞬間張遼は目にも止まらぬ速さでそばにあった呂布と同じ棍を掴むと彼に向かって跳んだ。
一足でそこまで飛んだわけではないがその速度は人間のものではない。
振り下ろされた棒を呂布が棒で受け止める。
先ほどとは逆の体勢である。
防御されて張遼は地に足をつける前に後方へくるりと身を翻した。宙で回転して着地すると見よう見真似で棒を構える。あまり様になってはいない。
だがそんなことはどうでもいい。張遼は笑っていた。
これだ。これがこの男の正体で、本来の価値なのだ。
やっと本物の呂布を見つけた喜びに全身が震えていた。
そう、自分はこの男に捕まったのだ。

 静止状態から再び突然に棒が繰り出される。呂布がそれを捌きそのまま攻撃に転じる。張遼は慣れぬ動きながらもそれを棒で防御する。
棍での戦いは素手や剣での戦闘よりも数段高速である。ある部分ではそれらの戦闘よりもとても高度だ。
張遼が棒がしなるほどの速度で攻撃を行う。呂布は余裕を持ってその不慣れな攻撃を受け止める。武器を使った闘いでは呂布に破格の長がある。だが張遼は見る見るうちにその使い方を会得した。一撃ごとに攻撃の合理性が増す。まるで張遼という流派がゼロから数十年かけて興っていくようだった。目の前で、この数分にも満たない時間で。
何度か重い打ち合いを交わして、両方の棒がぶつかった部分でへし折れた。
破片が見物人のほうへ飛び、背後の壁に突き刺さる。
人々は驚いたがこれで“それまで”だろうと思った。つまり、試合終了だろうと。棒が折れたのだから。
だが張遼は手に残る木片を投げ捨てると呂布に飛び掛った。
繰り出した手は握られていない。爪で抉るつもりなのだ。
四速歩行の大型肉食獣らしい攻撃だ。だが獣型だった時に比べると今の張遼では体重が軽すぎる。
剣ほどの長さで手に残った棒を剣のように持ち直した呂布がその攻撃が届く前に棒を胴に叩き込む。張遼は打ち据えられて距離を取る。並の人間なら内臓が破裂するほどの一撃だったが、張遼にはそれほどのダメージは無い。
見物人たちはあっけに取られていた。
あんなに物静かであった張遼がこれほどのすさまじい戦闘を。
しかも、棍が折れた。
あれはただの棒ではない、寺院お抱えの武器職人達が気を練りこんで特別に製造した寺院騎士修練用の長棒である。よっぽど古いものが疲労で折れるのならば見たことがあるが、数度の打ち合いで折れることなどありえない。
観客達は目を剥いた。
どれほどの力を持って戦っているのだ彼らは。
ただ驚嘆していた者たちもやがて、尋常ではない戦いの本質に勘付いていく。
これは修練のための組み手などではない。
殺し合いだ。
誰もが知らず表情を改め手に汗を握った。
こんなことでいいのか。
正義なる寺院での、騎士の修練がこのように殺気にまみれていていいのだろうか。
その中で、孫堅だけは最初から理解して二人を眺めていた。声を上げて笑い出すのをこらえながら、静かに口の端を吊り上げている。
こみ上げる虎の闘争心を楽しむように押さえつけて彼らの戦いを見守っていた。
孫堅もまた、内に獣を抱える男なのだ。

 素手の戦いではさすがに分が悪い呂布は、隙を突いて新たな棍を拾った。先ほど呂布がのした誰かのものだ。
武器を手にすることに慣れていない張遼は、再び棍を手にするかどうか迷ったため拾うことが出来なかった。改めて拾いに行く隙を逃す呂布ではない。
呂布の身長ほどもある棍を持っているのといないのでは、間合いに明らかな差が生まれてしまった。間合いの優劣を覆すには相手の倍以上の力量が必要になるとも言われている。
観客の誰もが固唾を飲んで見守っているが、そんな周囲とは全くの別世界で二人の緊張は続いていた。他の誰の姿も目に入らない。互いの呼吸音、鼓動の音、筋肉の軋み。やるか、やられるか。それは二人だけの世界だった。
先に我慢が出来なくなったのは張遼だった。
飛び込むように駆け出す。左側から回り込んで飛びかかろうとするのを呂布の棍が阻む。それはフェイントだ。張遼は獣の動きで右に飛び跳ねる。それを読んでいた呂布はそれを迎え撃って薙ぐ。だが張遼は限界まで身を屈めてそれをかわした。呂布が体勢を立て直す前に張遼は呂布の懐に飛び込んだ。
張遼が呂布の頚動脈に向かって手を、爪を突き出した。
誰もが、首を抉られ鮮血が飛び散るのを予見した。
だが。
張遼の爪は呂布の首まであとほんの数センチのところで停止した。爪だけではない。張遼の体は金縛りにあったように手を突き出した形のまま急停止していた。呂布の体も、動きを止めている。
呂布の目が、張遼を見ていた。
呂布に見られて、張遼はあと一歩のとどめが刺せない。
張遼は苦しんだ。
あと、あと一歩なのに。もうほんの爪一枚分ほど腕を伸ばせばこの男を仕留められるのに。
動けなくなった張遼に、呂布だけが驚いていなかった。
棍を振り上げていた腕を、再び振り下ろす。
「ここまでだな。」
肩を叩き落されて張遼の体はその場に叩きつけられた。
容赦なくその背を呂布が踏みつける。
「かはっ…」
肺が潰されて空気が漏れる。
勝負はついた。
首をねじって張遼は足の主を見上げた。
主は笑う。肉食獣のように、獰猛に。
ぐりぐりともてあそぶように張遼の肩を踏みつけ、棍の先で這いつくばる僕のおとがいを持ち上げる。
「筋はいいが生意気な随獣だな。俺が躾け直してやろう。」
張遼は人の姿のまま咆哮した。


 もう一戦、と足をどけた呂布を孫堅が阻んだ。
修技場に転がる負傷者を医務室に搬送するためだ。その負傷者の中には張遼も含まれる。
張遼は差し出された孫堅の手を取らずひとりで立ち上がると、呂布を一瞥してから無言で立ち去った。
呂布はもう一戦が叶わず不満げだったが張遼と目が合うとニヤリと笑った。
そしてあっさりと諦めて声を張り上げる。
「おい、次だ!俺は今機嫌がいい、手加減してやるぞ!」
声を背中に聞きながら張遼の足は医務室とは違う方向に向かった。
呼び止める孫堅の声にはゆるく手を振って。





 怪我は、それほど重くはなかった。臓器も骨にも異常はなく、数ヶ所の打撲は張遼の回復力なら明日か明後日にはきれいに無くなるだろう。
回復のため獣型でぼんやりと自室の寝台に寝そべっていた。
いくらかの諦めと共に。
あの男と本気の殺し合いをするのはもう無理らしい。
呂布の目に制止の命令を出されると体は勝手に制止してしまう。張遼の体はもうそういう風になってしまったようだ。
それはひどく残念なことに思えた。
あんなに心踊るものだったのに。
先ほどの死合を思い出すと未だに動悸が上がり興奮する。
あの死闘は実に心地良かった。うっとりとあの感触を思い出す。
最終的には張遼が負けた形になってしまったが、今はもうそれほど気にならない。
神獣と呼ばれ千里を1日で駆け抜けることもできる張遼だが、その能力を人型に限定すると、できることは極端に制限される。おそらくそれが人が持てる最高の身体能力なのだろう。
そしてそれは呂布とちょうど良いくらいに互角であった。
 なんという男なのだろう。
思わず苦笑がこぼれた。
たかだか20年か30年しか生きてはいないだろうに。
神獣である張遼と互角に戦い、挙げ句には目だけで制御してしまう。
それはおそらく泉の力だけではないのだろう。
張遼はもうほとんど認めてしまっていた。
あの男が、呂布が主になることを自分は望んでいるのだと。
いつからかと問われれば、雪山で視線を絡めとられたあの時、つまりは最初から。そうとしか考えられない。
稚気じみた部分は違うにしろ、あの獰猛な暴力に支配されることを自分は望んでいるのだ。
くつくつと笑いがこみ上げる。
 この張遼が。
ただ、このまま大人しく膝を屈するのは癪だ。
あともう少し何か、決定打が欲しい。
何か、切欠が。
些細なことでもいい。張遼の抵抗を全て奪ってしまうような、どうしようもない決定打が。
もう張遼は、あの時呂布の首を抉ってしまわなくて良かったと心の底から思っているのだ。



















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