062.指輪 <2> ごつ、ごつ、ごつ、と重い足音が廊下を行く。 それは足の長い絨毯に吸い込まれて反響しない。 二人は自分の組のビルに戻ってきて先ほど部下から本家と同じような出迎えを受けたばかりだ。 本邸は一応、張遼が組と共に引き継いだ純和風の大きな屋敷があるが、設備の関係から活動の拠点はこちらに移っている。 特に本邸は必要も無いのだが、維持費削減のため売り払おうにも前の持ち主が裏の人間では買い手はあるまい。 「おかえりなせぇやし、兄キ、か。」 組長の部屋に入り、二人きりになって夏候惇が何となく口を開く。 「知っているか、最近メイドの格好した女に「お帰りなさいご主人様」と言わせるのが流行っているらしいぞ。」 「そうか、では明日からお前がやれ。」 軽口をバッサリと両断して張遼はクローゼットを開ける。 取り出した黒革の鞄に、用意していた衣類といつもは持たない財布を入れていく。 これから張遼は、部下にも無論外部の者にも隠れた外出をする。 ふた月に一度、顔には出さないが張遼はそれを楽しみにしているのだ。 熱心なその後ろ姿に夏候惇が声をかける。 「沢渡には裏に車を回させたぞ。で、俺の準備はもう出来てるからな。」 張遼は前半に頷いて、後者で驚いて振り返った。 「は!?お前も行くというのか!?」 当然、と頷いた夏候惇に張遼が声を荒げる。 「前回同行を許したのは一度だけ、と言ったからだ! 大体私とお前が同時に留守にしてどうする!」 組織のNo.1と2が半日とはいえ同時に行方をくらますのは良いことではない。 ましてや、先日の事件があったばかりでは、このお忍び行自体止めた方がいいというのに。 「尚更だ。単独行動はよした方がいい。 ボディーガードくらいは必要だろうが。」 張遼は露骨に嫌そうな顔をする。 だが夏候惇は既にそんな表情には慣れっこで、言い出したら聞かない男であることを張遼も知っている。 無言でクローゼットに向き直り、手荒に鞄の中身を引っ掻き回した。 「…そんなに嫌かよ。」 「…お前は目立つ。」 実際、夏候惇ほどお忍びに向かない男もそうそういない。 身長は190cm近くもあるし、体も顔もゴツくて髭もある、おまけにそこらではちょっと見ないほど、男のくせに髪が長い。 それに何と言っても片目が潰れているせいで眼帯かサングラスが欠かせないのだ。 そんな男が群衆に簡単に紛れられるものか。 夏候惇に比べれば、張遼はまだ規格が一般的だ。 「何と言われても絶対についていくからな。」 念を押すように背中に声をかけられて、張遼は肩越しに持っていたライターを投げつけた。 10分後、二人は用意した車に乗って裏門から外出した。 本家に出向く時は表門の前に車を回させて、構成員の送り出しを受けての外出となるが、基本的には駐車場があるのは 裏門側なので、そちらから出入りする。 車は表参道にある有名な巨大ビルへと向かった。 地下の駐車場に車を置くと運転手を残して二人だけで店内へと向かう。 休日ということもあって若い女性客やカップル、家族連れで賑わう中を二人は通り抜けていく。 格好から、ホストと見えなくもない二人を幾人かが目で追うが、そのような視線は全く無視された。 一度宝石店に立ち寄り、二人が向かったのはビルの上部にある高級エステの店だ。 出迎えたのは女店主、裏向きには張遼の愛人ということになっている。 彼女は上等の客を迎えるのと同じ笑顔で張遼を店内へ導いた。 「お待ちしてました。」 「ああ、久しぶりだな。」 張遼は薄いながらも笑みを浮かべて答えながら、先ほど買った小さな箱を渡した。 月に一度、彼女へのプレゼントだ。 微笑み合う二人を夏候惇が仏頂面で見ている。 彼女の、水商売の女とは違う男に媚びるわけではないカタギの『女社長』然とした物腰を好ましくは思うが、綺麗な女の手が張遼に触れるたび、綺麗な顔が張遼に微笑むたび、どうしても面白くないと感じてしまう。 無論嫉妬するわけではない、盗られるのではないかという焦燥感にかられるのだ。 自分だって綺麗な女に微笑まれれば悪い気はしないのだが、そこはまぁ、大人の男の我侭だ。 女店主は包みを笑んで受け取り、VIP用の個室に二人を通す。 「いつも素敵なものをありがとうございます。」 そして扉が閉められた瞬間、張遼は偽の笑顔を剥ぎ捨てた。 「迷惑料だ。」 「毎月これほど頂かなくても結構ですよ。」 苦笑して箱の中身を改める。 実は彼女は張遼の愛人でも何でもない、ただの隠れ蓑だ。 店のオープンに張遼が融資しただけ。 資金も場所も大盤振る舞いしたのはこの月一度の外出を手伝わせるためだ。 とはいってもこの店はれっきとしたカタギの店、出資したのは張遼が表立って合法的に経営している会社からになっている。 「では、着替えが終わりましたらお声かけください。」 そうとだけ言って彼女は入ってきたのとは別のドアからスタッフルームに移動する。 二人は早速上着を脱いだ。 モロにヤクザかホストかという黒系の外国製スーツに黒系のシャツを脱ぎ、着たのはそれらとはおよそかけ離れたもの。 張遼は黒いTシャツとカーキのミリタリー風コートにダメージジーンズで、黒いブーツ。 首元には褪せた多色織りのエスニックなスカーフを巻き、褪せた紫色の帽子をかぶり、腕時計もキラキラのロレックスから量産のものに変えるという徹底振り。 夏候惇は黒い細身のジーンズに白いワイシャツ、黒いジャケットを着て髪を一括りにして髑髏のついた黒いニット帽を目深にかぶる。 いつのまに揃えたのか、シルバーのネックレスにブレスレット、ウォレットチェーンまで装着済みだ。 古着屋でマネキンごと購入してきたような格好になった張遼が、夏候惇をじとっと見つめた。 「…お前、それなんかカッコよくないか?」 「は!?そんなことはないと思うが!」 張遼がどう思っているか…というか、本来の目的がどうであれ、夏候惇にとっては滅多にない二人っきりでの外出、つまりデートとしか思えないわけで、そうなれば変装とはいえ隙のある格好などできるはずも無い。 舌打ちされた気がしたが、聞こえない振りでごまかした。 最後に夏候惇がサングラスを外して治療用の、普通の白い眼帯に取り替えて着替えは終了。 着ていたものは脱いだままでスタッフルームへ入ると、先程の店主と若い女の従業員が一人いて、二人を待っていた。 従業員からあるものを受け取って、店主がそれを二人に渡す。 「従業員証です。」 張遼が黙って受け取る。 無論偽造だが、多少加工を施したそれぞれの顔写真と、偽名、勤め先の名前が入っている。 店名は実在するテナントのもので、そこも張遼の息がかかった店だ。 「車はいつものように、地下に停めてあります。白の軽で、番号は…」 車種とナンバー、それにビル内の地図を確認しキーを受け取ると、二人は従業員用通路へ出た。 「では後を頼む。」 「はい、お気をつけて。」 短いやり取りの後、二人はプレートを着けるとそのまま慣れた風に歩き出す。 通路内で幾人かとすれ違うが、何を気にされることもなく従業員用エレベーターに乗り、地下フロア最下層にある従業員専用の駐車場へとたどり着く。 出入りを監視する守衛もいたが、二人とも手ぶらなのを見ると証を掲げただけで「ご苦労様です」と通してくれた。 「いいのか、あんなんで。」 前回も気になったことを夏候惇が口にする。 「警備員も所詮アルバイトだからな。」 張遼は仕方が無いさ、と笑んだ。 全くもって、自分らしくない場所にいることを夏候惇は自覚している。 自分に似合うのは、芸者も呼べるような高級料亭か、キラキラで薄暗いクラブ、非合法の地下カジノ、あるいは所有の革張りの黒いソファぐらいだと思う。 絶対に、黄色い看板で、白く安っぽいビニールのシートで、給仕をするのが適当な化粧をした中年女性で、香りも味も死滅したコーヒーを300円で出す店なんかじゃない。 今、人生で二度目の、ファミレスというやつに、夏候惇と張遼は居る。 ちなみに、ファミレス初体験は前回のお忍びの時だ。 張遼もこの店に愛着を持っているわけでは全然無い。 ふた月に一度の息抜きに、ファミレスに行きたいんだなどとアホなことを言う男ではない。 その証拠に、注文したコーヒーには一度も口をつけていない。 口をつけるどころか、口を開くことさえなく頬杖をついたまま外を眺めている。 夏候惇の斜め背後、視線の先には、古びた孤児院がある。 以前行き先をしつこく尋ねた際、渋々といった調子で「私の育った家なんだ」と言った彼の顔をよく覚えている。 夏候惇とは違ってヤクザの名家(というのも変な表現だが)に生まれたわけではないことは知っていたが、孤児だったとは初耳だった。 物心つくかつかないかのうちに両親を亡くし、身寄りの無かった張遼はそこで育てられた。 高校を出るまでは居ていいという規則の孤児院で、中学卒業の後にくぐったのは高校の校門ではなくヤクザの獄門だった。 元は張遼もそこから普通の高校へ通うつもりであったが、中学三年の冬に彼は先の組長に出会い、道を変えたのだ。 それでは孤児院とはいえ至極真っ当な世界から裏社会へ入るのにかなり抵抗があったのだろうと問えば、逡巡はほとんどなかったと言う。 他に考えられぬほどあの人に心酔していたのだ、私は昔から頑固でな、と張遼は苦笑する。 ただ、迷惑をかけぬようにと誰にも行き先を告げずに身一つで院を出た。 やがて自分を自分で生かすことができるようになってくると、義理を返すべきだと思い至る。 元来そんな性格と物欲の無さから張遼自身は不便と感じたことはなかったが、施設内ではいつも資金繰りに苦労しているようだった。 そうして、張遼は毎月止むことなく決まった額を匿名でそこへと送っている。 今の地位から考えると、多くは無いが、決して少なくはない額を。 全く、安っぽいドラマのような物語だ。 それでも夏候惇には非難も否定できない。そこに夏候惇は一切関わっていないからだ。 相手の過去にまで干渉したいと思うほど、子供ではない。けれど自分の知らないことで微笑む彼を見ているとどうしたって寂しい。 張遼はほとんど身動きもせず孤児院を眺めていた。 二階の角にあるこの席からは、前庭で遊ぶ子供達の姿が見えているのだろう。時折歓声も聞こえてくる。 外からの光は赤く色付き始め、張遼の栗色の髪をオレンジ色に染めていた。 西日が仄かに輪郭のぼやかせるせいか、表情は笑っているのか無表情なのか見分けられない。 すくなくとも、夏候惇の挙動に反応する気が無いほどそちらに熱心に見入っていることだけは確かだ。 そして見たことが無いほど瞳が優しい。 「…やはり、昔の家には特別な思い入れがあるのか?」 することもなく問えば、ちらりとだけ目線が寄越された。 夏候惇にとって、家はすでに組で、そして曹操だった。 物心ついたときから曹操は夏候惇の親分で、支え、与えられ、人生の全てだった。 それと同じとするならば、想像することはできる。 だが夏候惇のその問いにも、張遼はゆるく首を振った。 「いや…それほどでもない。」 「…では何故こう何度も様子を見に来ようとする?」 面倒な手順を踏んで、根回しに散々金をつぎ込んで、それに今のような危険な時期にまで。 「そうだな…」 張遼は向こうを見たまま考え込む。 その姿はいつもの、曹操が切れ者と褒め称える彼とはまるで違っていた。 思考に時間をかけ、言葉尻すらおっとりと丸みを帯びていて柔らかい。 見慣れない彼の姿は、夏候惇に僅かな焦りと苛立ちを覚えさせる。 夏候惇は、苛烈で絢爛で隙が無く、そして孤独な張遼に惚れた。 彼は極道を生きる者として、一つの完成形を成していたのだ。 けれど自分でも驚くほど一般的な感性を持っていることに最近気付いた。 好きな人には笑っていて欲しいと願う男だということに。 微笑んでいさせてやりたいと思っていることに。 「…向こうの世界に未練があるのか?」 それは無様な質問だった。問う方にとっても、もし肯定するなら、答える方にとっても。 だが張遼は、笑った。 それは横顔だったけれど、夏候惇を安心させるような笑みだった。 「それは無いな。 …確かにこちらは汚くて、暗い。 だが守るものがあって、敵がいて、目指すところがある。 私には十分だ。懐かしいとは思うが、私の家は最早あそこではない。」 言い切る横顔を、夏候惇は黙って見つめる。 張遼は、待っていれば、はぐらかさずに答えをくれる男だから。 「だが…そうだな、まだ繋がっていたいのだろうな。普通の幸せを求める人たちと。意識もせず平穏の中にいられる子供達と。 私がこの道を選べたように、自分の生き方を自分で選べる環境を守ってやりたいと思う。 …そう、あそこは私の原点だし。…それに、子供は守るものだという概念も根強いから。」 張遼の横顔は鋭く美しく、夏候惇はああ、好きだな、と思った。 子供を眺めるその優しい顔も、まろやかな言葉を生むその声も。 そんなものなのだろうか、と納得しようとするが、上手く行かない。 腕を組んだまま一口飲んでやめたコーヒーを睨めば、カップはオレンジに染まりながらもその中身は真っ黒のままだった。 生まれたときからヤクザだった夏候惇にはおそらく永遠につかめないものが、きっとあるのだろう。 向こうの世界は、凡庸で愚鈍だと思ったことはあっても、憧れたことなどない。 生きるべき道は、すでに曹操の傍らに用意されていた。そこから外れることなど考えることも出来ない。 けれど張遼が繋がっていたいと望むならば、夏候惇が手を伸ばすことさえ出来ない向こうの世界は、得難く価値のあるもののような気がした。 ようやく彼がこちらを向いた気がして顔を上げると、真っ直ぐな鳶色の瞳が自分を捕らえていた。彼の透明な瞳は、いつでも真っ直ぐに人を射る。 半分照れを隠すように難しい顔をすると、張遼は笑った。 「何を考える必要がある。 かつてはあの人がいて、今はお前がいる。ガラスの向こうに憧れる必要など、私には一つもないんだ。」 |