2.





次に目を覚ましたのは、飯の、旨そうな匂いにつられてだった。
前に飯を食ったのはいつだったか思い出せないが、空腹は実はかなりの段階まで進行していて、用意された
麦入りの飯と具沢山の味噌汁、焼き魚をあらかた一人で食い尽くしてしまった。
途中で気付いて詫びたが、張遼という男は薄く笑って構いませんと答えた。
起き上がるのも一苦労だった体をずっと隣で支えていてくれ、食後に苦い薬湯と、口直しの番茶まで用意してくれた。

表情の割りに随分と優しい人間だとわかり、妙に嬉しく、男だというのに触れている手や肩が妙に気恥ずかしかった。
文遠の体温の低い体が、自分の熱を受けて温まっていく気がして、強く抱き寄せたくなった。
もちろん、できなかったし、しなかったけれど。







張遼は自分が拾った名無しの男を「御武家様」と呼び、甲斐甲斐しく世話を焼いた。
自分のことはほとんど話したがらなかったが、何気ない会話を交わしているうちに段々と声を聞かせてくれるようになり、
表情にも変化がつくようになって来た。
つり上がった眼は生まれながらとしても、無表情は、単に人とあまり接しないせいなのかもしれない。






二人が寝て起きて、暮らすのは、土間と囲炉裏も含めて十畳ほどの、小さな小屋。
随分と頑丈に作られていて隙間風などは無かったが、冷気の忍び寄るのはどうしようもない。
元々住居としてと言うよりは、木こりの休憩所か…炭焼き小屋のような、そんな建物だったのかもしれない。
一組しかない布団を客に譲った文遠は、気休め程度に着物を敷いて外套をかぶって眠る。
囲炉裏にできるだけ近付くようにして眠るその顔を見つめ、そのまま冷たくなってしまわないだろうかと何度も思った。




訪ねて来る者はいない。
馬の音も、他の人間の声もしない。
文遠は山奥なのだと言っていたが、その通りなのだろう。
この男は一人で、人の寄り付かぬ山奥に住んでいるらしい。
何故、と問うても返事は返って来なかった。
麓の村とはそれなりに交流があるらしく、家の中には他人の匂いのするものもある。
それはここが人外魔境ではないということを教えたが、この家からどれほどの距離のところにあるのかはよくわからない。
片道一刻よりはかかりそうだ。


結局、わかったのは、文遠という男はずっとここに一人で住んでいて、薬師のようなことをしたり猟師のようなことをしながら
毎日山を歩く厭世暮らしをしているということだけだった。

自分について思い出せたことに至っては、何も無かった。
かろうじてわかるのは、右利きであるとか、片目を遥か昔にどこかに落としてきてしまったことくらいだった。





数日もほとんど寝たきりな生活をしていれば、段々と日々に飽きても来る。
ひどい打ち身だらけだった体も、大分痛みが薄らぐか慣れるかした。
何か自分のことを思い出そうとしても、文遠に拾われる前の人生が存在していたのかさえ疑わしいほどにとんと思い出せなかった。


昼食を終えても横にならないので、文遠は背に添えていた手を離した。

「起きられるのですか。」

「…することがなくてな、さすがにもう寝ているのは限界だ。
 何か俺にもできる仕事は無いか。」

「そんな…御武家様に何かしていただくわけには。」

文遠は困ったように笑う。

「それなのだがな、俺は何も覚えておらんのだから、御武家である確証は何も無い。
 着ていた鎧がどうのと言っていたが、どこかからもしくは死体から失敬したものかもしれん。
 だからお前が畏まって俺に仕える義理は何も無いんだぞ。
 それに…、記憶が戻ったとしても、俺は恩人を罰するようなことはせぬ男であるつもりだ。」

文遠は微笑んだ。

「その仰りようがまさに御武家様でございます。
 …良いのです、文遠の好きにさせてくださいませ。」

そううっそりと微笑まれては、それ以上何も言えなくなってしまう。
もうすでにこの男の微笑む顔にはかなり弱いことを自覚していた。

「…そうか。」

大体、大事に扱われることに嫌悪は無いので結局それを受け入れることにしてしまう。

文遠は何か極力動かずにできる仕事は無いかと思案を始めた。
できるだけ意思を尊重してあげようと思っているのだろう。
けれども移動せずにできる仕事はそうは無い。
夜にいつも文遠が座り仕事にしている薬草の何やらは彼にしかできないし、料理関係の下仕事はそもそもやらせる気がない。
やがて文遠は鉈と薪を数本抱え戻ってきた。
薪を更に割って焚き付けを作って欲しいらしい。
二つ返事で請け負った。





それから、文遠は籠編みなどを教えた。
冬になる前に取ってきて干しておいた蔦を裏にある納屋に貯めてあったらしい。
記憶を失う前にもやったことがなかっただろうと確信が持てるほどにその手つきは不器用で、何度か途中で放り出しそうになったが
そんな様子を見て文遠が笑いながら決して折れずに手取り足取り丁寧に付き合ってくれるので、上手下手は置いておいても編み方は
きちんと覚えることができた。
…文遠が隣に座って手に手を添えてくれるのが一々胸を騒がせるので多少時間がかかったのも本当だが。

そのうち、どうやら大抵のことには大雑把だが仕事を始めると完璧にこなさなくては気がすまない性分らしく、いつの間にか籠編みに
熱中するようになり、時間を潰すのには最適となった。。






実際、大分距離が縮まったなぁと思う。
二人だけの空間で生活をして、二人でおはようと顔を見合わせてから一日を始めてお休みといって終えるのだから、
当たり前のことかもしれないが。

文遠はよく笑顔を見せる。
笑顔といっても快活に笑うわけではなく、微笑むといった方が正しいくらいだが、それでも笑顔が見られるのは嬉しい。
文遠がしゃべってくれれば、その声を聞くことすら楽しかった。
彼の声は男の割りに硬く高く、年の割りに若く思えた。
実際の年齢は教えてくれなかったので、外見から推し量っただけなのだが。





昼間は何かとよく出歩く文遠だったが、晩飯後はさすがに腰を落ち着ける。
囲炉裏をはさんで向かい合い、他愛も無い話をする時間が、記憶も仕事も無い自分にとっては一番楽しい時間だった。
文遠の声はどことなく艶を含んでいて、その切れ上がった瞳は不思議といつもとろんとして見え、どこか婀娜っぽい。

「冬は、水汲みに行かずとも済むのが良い点ですね。
 そこらにある雪を溶かせば事足ります。」

あとは寒いし燃料にも食料にも困るし、欠点ばかりですが、と自分から微笑んだ。
そして戸口に目をやり、その外に思いを馳せたのか

「ああ…そうですね、あとは、雪は、綺麗だ。」

と、呟いた。

囲炉裏の小さな火に照らされて、そのほっそりした横顔はほのかに揺らめいて、温かく、見えた。
暖色の睫毛が彩る奥の瞳も、温かく光っていて。


「…そうだな、綺麗だ。」

「ええ。」


再び吹雪いてきたのか、戸を鳴らす風の音が強くなってきていた。









その晩は、今迄で一番の冷え込みになった。
布団をしっかりと肩までかぶっていてもどことなく寒い。
寒さで、ふと夜中に目が覚めた。

吐息が、白く煙る。
火は炭に赤く残る程度で、炎を出していないため室内はほとんど暗かった。
普段から、節約のため眠る間は炭を足していない。
いつの間にか雪は風と共に止んでいたようで、冷えはより強まっていた。
大雪が降ってそれがさぁっと綺麗に晴れた時が一番寒い。
敷布団の隅に手を伸ばせば、凍ってはいないがそれほどに冷たかった。

はぁっ、と吐息が聞こえた。

首を巡らせれば、いつも寝ているように、今も文遠が囲炉裏の向こうに伏している。
脚も曲げて体を丸め、できるだけ蓑のなかで暖を取ろうとしているようだったが、丸めた体は小刻みに震えていた。

「…文遠…?寒いのか…?」

小声で問えば、震えはぴたりと止む。

「…申し訳ありませぬ、お気になさらず。」

謝る必要がどこにあるのか、文遠はそう言うと無理矢理に震えを押さえ込んでいるようだった。

「…何を馬鹿なことを…。こっちに…」

一度僅かに言葉を詰まらせ、続けて言った。

「こっちに来い、文遠。
 …二人でいた方が暖かい。」

文遠が瞠目したのが気配でわかった。
しかし、彼に動く様子はない。

「…文遠。」

もう一度名を呼んで、不自由な体を揺するようにして身を起こそうとすると、先に文遠が起き上がった。
無理をするな、と言いたいのだろう。
だがその場を動く様子のない文遠に、彼の逡巡は感じながらも声を重ねた。

「…早くしろ。寒い。」

そして、文遠は立ち上がった。
ぺたりぺたりと足音が響く。
冷えた床に足の皮が張り付くかと思ったが、それほどまでではないらしい。
文遠が傍らに膝をつくと、先に布団を持ち上げて迎え入れようとした。

「…本当に、よろしいのですか?」

まだ躊躇う文遠の腕を掴むと強引に自分の上に引き倒した。
衝撃に、間抜けにも自分が悲鳴をあげる。

「ぐあっ…!」

「また…!無理をなさいますな。」

たしなめるように言いながら文遠は体の上から退き、申し訳程度に布団の端におさまった。
そして礼を言うと心なしか急ぐようにして目を瞑った。
二人の間には奇妙にひとひとり分の間隔が空いている。

もう一度決心しなければならなかった。

「…それでは寒いだろう。」

ここ数日で一番度胸を使った気がする。
うつむいて瞳を閉じた文遠の腰に手を伸ばしぐいと己の側に引き寄せたのだ。
そのまま冷たい体を腕の中に収めてしまう。
やってみれば、男の体だというのに嫌悪感は沸かなかった。


文遠は抵抗しなかったが、最初のうちは嫌がるというよりも驚いて硬直していたのかもしれない。
だが我に返り離れようとする前に気付いてしまった。
自分を抱きしめる男の腕が力強くしかし自分が逃げようとすれば簡単にそうさせてくれることを、そしてその暖かさを。
心の臓が、どくどくと飛ぶように早鐘を打っていることを。


「・・・・」

「・・・・」


そっと文遠は手を動かし、ゆるく背に腕を回した。
途端に緊張した相手には意図してか否か気付かない様子で、ことりと胸に頭を預ける。

「…ひとの体の音を聞くのは、誠に久しぶりでございます…」

小さくそう呟くと静かに目を閉じた。

そのまま間もなく眠りに落ちた体を、片目の男はしばらく抱きしめていたが、やがて誘われるように眠りに落ちた。






それから毎晩抱き合って眠るようになった。
寒いから、その方が温かいから、と言い訳しながら。

抱いて寝るだけで、それ以上の行為には至らない。
文遠は薬草のような干し草のような匂いがして、いつも名前もわからぬ自分に安堵と深い眠りをくれた。















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