3.






用事があるので里まで行って参ります、と文遠は朝早くに家を出た。
彼の口から里へ行くという言葉が出たのは初めてだったので、自分がここへ来てからを考えればかれこれ一月ぶりの里となるのだろう。
夜までには戻りますと言われたので、大人しく彼の置いていった昼餉を食い、力を取り戻すための鍛錬をしたり、おぼつかない手つきで
籠を編んだりしながら帰りを待った。
編み方を習ってからもうしばらく経つが、なかなか上手くならなかった。
救いがたいほど不器用で、後に始めた鍛錬の方がよほど性に合っていると見えた。






日が落ちる寸前に帰ってきた文遠は、雪道を歩いてきたというのに、耳の端だけを赤くして、真っ白な顔をしていた。

「おお、戻ったか。
 …どうした?顔色が悪いぞ。」

いつも、外から帰ると文遠は笑んで戻ったことを告げ、熱いお茶を入れてくれる。

白い顔の文遠は、無表情なまま無言で進むと、土間に膝を着いて囲炉裏をつつく男を見上げた。


「…麓の村に、御迎えが来ております。」

「…誰の?」

思い掛けない言葉に間抜けな言葉を返す。
少し頭をめぐらせれば、ここには自分と文遠しかいないのだから、そして敬語なのだから自分にだろうとはわかるのだが。
文遠はそれには答えずに、そのまま続けた。

「…文遠は、わけあってお迎えの方々と顔を合わせることが出来ませぬ。
 お近くまで御案内させて頂きますゆえ、どうかその先は御容赦を。」

「…何を、」

「…皆様、元譲様のことを大変心配していらっしゃいます。
 わたくしの人嫌いの為皆様方には長く心配させてしまいましたこと、平に御容赦下さい。
 御記憶も、御知り合いの方々と交われば間も無く思い出されましょう。
 さあ、御仕度を。」

流れるように一息にそう言われ、言葉も見つからず言われるがままになった。
元譲、ああそれは確かに俺の名前だった。
初めて聞く名前が、自分の中にすとんと落ちた。

文遠はいつもの丁寧な手つきで元譲の身支度を整えていく。
だがその姿には反論を許さぬ何かがあった。

御武家様、と凛とした声で呼ばれるたび、名を呼ばれたいと思った。
さしあたってとりあえずの代名詞ではなく、親から授かった本当の真名を。
どうにかして思い出し、彼の唇にその音を紡がせたいと思った。

しかし予期せず呼ばれた自分の名は、目に見えぬ壁と味気ない言葉に埋もれていた。
それは何よりも残念なことだった。


「外は今は雪も止んでおります。
 ぼろではありますが、わたくしの外套をお使い下さい。
 この悪い足場、御怪我の癒えぬ御体に元の具足は御負担になりましょう。
 後に必ずお届けに上がります。
 決して頂戴したりは致しませぬ。文遠を信頼下さりませ。」

「それは…もちろんだ。…だが…」

言葉の続きを待って文遠は静かに首を傾げている。


「…これは今生の別れとなるのだろうか。」


文遠は目を見開き、次いでその場に手を着いて静かに頭を下げた。


「…ならば…具足は…よい。
 お前が持っておれ。せめてもの礼だ。
 売れば何かの足しにはなろう。」


深く、深く、文遠は頭を下げ、ひたすらに地面に額を押し付けた。

白いうなじを見て思う。
ようやく…その仙人のような心の一端に触れたと思ったのに。

はじめのころ、文遠は元譲を丁寧に扱い、言葉すら謙りに謙った。
だが、それが元譲には拒絶に見えた。
優しい手付きで労わっていても、それは傷ついたものを見つけてしまったゆえの義務のように思えた。
世話を焼かれていても、心は山そのものにあり夏候惇のような小さな者は構っていられないように感じられた。
御武家様、と呼びながら武家にはかかずらわりたくはないと、暗に言っているような気がした。
恭しい言葉と態度の向こうの拒絶と、壁。

それが、ようやく。
ようやく、冬の雪が融けるように綻びかけてきたかと思ったのに。



  ああ、俺はこの男が本当に好きだったのだな。



今、元譲の目には彼の雪のように白いうなじしか見えなかった。






















文遠は折れた足にしっかりと木を固定し、木の枝を杖にして持つ元譲に肩を貸しながら雪道を歩いた。
まだ元譲の足には強く踏ん張る力が戻っていない。
一月も歩かずにいた体は、本人の予想よりも遥かに体力を失っていて、元譲をいらつかせた。
いつの間にかほとんどの体重を文遠が支えていて、それでも元譲の息は上がっていて、文遠の呼吸は乱れていなかった。
休み休み進むも、里は思ったよりも遠く、長い道のりの上にも二人に会話は無かった。

元譲には会話を望む気はあったが、文遠差し迫った雰囲気がそれを許さなかった。



突然、文遠が小さく声を荒げた。

「狼が…!」

弾む息を抑え斜面を振り仰げば、向かいの山を灰色の点がいくつも駆け寄って来ているのが見えた。
群れが、自分達を獲物と見定め突進してきていた。

「お行きください!
 本陣はこの山のすぐ裏の村に組まれております!
 もうほど近いのです!」

一瞬で、怪我を負い無手の自分では足手まといにしかならぬと判断した元譲はその身を翻す。

「わかった、すぐに助けを呼んで…」

「いいえ!」

言葉尻を激しい文遠の声が打った。

振り返れば文遠は元譲を真っ直ぐ見つめ、顔を歪めて笑っていた。

「私は大丈夫です、構われますな。
 文遠のことは…雪山が見せた夢幻と…お忘れください。」

言うと文遠は背後の群れに向き直り、腰に下げていた細長い布包みに手を伸ばした。
その中身は、刀だ。
中身を見ずとも、記憶に無いはずのその長さと重みを、元譲はよく知っていた。


「…お戻りになられたら、もう二度と吹雪の雪山を歩かれますな。
 今度こそ、命を落とされますぞ。」


振り返らずに紡がれたその小さな声が、忠告の言葉が、完全なる別離を告げていた。


もう一度その顔を眺め、できることなら口付けたいのに。
自分を待つという者たちの場所へ着いてからならば、もてなして今までの礼をしたかったのに。

そうできぬあまりに突然であわただしい別れが身を裂くほどに苦しかった。


「…さらばとは…申さぬ!」

躊躇いを振り切るようにそう言い放つと元譲は踵を返し、杖を頼りに走り出した。






痛む足を懸命にこらえ、元譲は急ぎ歩き続けた。
文遠が頑丈にやってくれた補強のおかげで、なんとか歩くことができている。
だが治りかけていた足の骨は、これでまた壊れるかもしれない。
けれどそんなことは今問題ではなかった。

恩人を、否、最早この世でもっとも愛しいものとなった男が、自分の非力のせいで失われるかもしれない。




別れてから真っ直ぐ進んできて、山をぐるりと回ったところで、眼下に、陣営が見えた。


足元が滑った。
踏み込んだ雪が溶けかけていてぐじゃりと動いたのだ。
体勢を直すことができずにそのまま滑り落ちていく。
目前に木が迫って体を無理矢理ひねると、いうことを聞きずらくなっている体は回転を始めた。











陣幕は、本陣とする宿の広い裏庭に設置されていた。
庭の先には何連にも連なる未開の山しかなく、普段ならば見張りのものすら置かれない。
しかし今は大将である曹孟徳が雪を眺めたいと言って庭に降り立ったので、十数名ほどの側近と護衛が立てられている。
宿自体はそれほど上等ではないが、主人が趣味で金をかけたこの庭はそれなりに見られたものだった。
雪が厚く積もるその向こうは、ほとんど見通せぬ、針葉樹が覆い繁る森になっている。
彼はこの宿を拠点にある男を捜していたのだ。

孟徳の右腕であった武将、夏候元譲がこの付近で散策に出たまま消息を絶って、一月が経つ。
敵対する近隣諸国の者にかどわかされたのかとも思われたがそれにしては他国から何も言って来なかった。
彼ほど腕の立つ武士を捕らえるには相応の戦力が必要だろうし、それだけの人数が動いたのならば必ずわかりやすく痕跡が残るはずだ。
そのような目撃証言は全く上がってこず、また付近の里の者に聞けば、この辺りの山は季節に関わらず非常に迷いやすいため
地元の者でもあまり立ち入らないという。
ならば、遭難したか。

孟徳はもう何度目になるか数えられぬ舌打ちをした。
彼がいなくなった時、孟徳は自らの城にいた。
その時元譲は戦のために進軍していたのではない。
ただ新しく手に入れた国の地方を視察に出ていただけだ。

行方不明になったとの知らせを聞いた時は何故一人で行かせた、と使いの者を怒鳴った。
急ぎ使者を送って行方を捜させたが地元の者があまり協力的でないためはかばかしい成果を挙げられなかった。
ようやく手が空き自らその地へやってきてみたが、到着した時には一月も経っていて、存命は絶望的だった。

失くしたことをただ惜しむでは済まないほど、元譲は腹心の部下だった。
だが孟徳がこの地を訪れて既に五日、これ以上実りの無いことには時間は費やせない。
隠し通しては来たが、敵国にこの失踪はすぐに知れ渡ろう。
いや、もう知れているかもしれない。
好期とばかりに攻め込んでくる輩もあることだろう、その対策も練らねばならぬ。

 本当に、もう戻って来ぬつもりか元譲・・・!

しばらく山を睨み上げ、孟徳は微動だにしなかった。

そして、諦め切れぬままゆっくりと室内に戻ろうとした。


「誰だ!!」

突然、誰何の声が上がった。
振り返り見れば、転がるようにして男が裏山から出てきたところだった。
男は既に何度か転んだのであろう、雪やら枝葉やらをあちこちにまとい、平らなところに出て力尽きたかのようにもう一度転んだ。


「…元譲!?」

曹操は突然転がり出てきた男の顔を確認して驚いてその名を呼んだ。





「もう、とく。」

記憶を無くしたはずなのに、その男の顔を見ればすぐにその名が浮かんだ。
身命を賭して、この身の忠誠を全て捧げると誓った男。
ぼんやりと、視界に主君の顔が映る。


「元譲ではないか!お前、一体どうしたのだ!
 散策に出かけたまま、一月も、お前はどうやって―――!」


ああそうだ、俺は散策に出かけたのだった。
空は曇ってはいたが、昼間だったし初めての土地だったので、陣営の準備が整うまでほんの少し、と一人で馬に跨り散策に出たのだ。
だが途中で吹雪き始め、そして…そして、どうしたのだろう。

ああそうか、やっと今帰って来たのか。
なんだか体のあちこちが痛い。
つかれた。
眠い。

「…一月?」

一月経っていると言ったのか?

「そんな馬鹿な…俺は…」

ついさっき…吹雪にあって…

なんだろう、頭が痛い。

元譲は手でこめかみを押さえた。

その手はかじかみ、感覚がなくなりそうなほどだ。

何だったか、言わなくてはならないことがあった気がする。

だが、何だったのだろう。

頭が、割れるように痛い―――――























































「…さようなら、元譲どの。」

文遠は、彼の消えていった方を眺め、小さく呟いた。

 さようなら、束の間の客人。

彼の足跡は今日のうちに真白い雪と風が消すだろう。跡形も無く。
二度と、ここへ戻ってこられぬほどに。


いつの間にか、文遠の周りは狼達が取り囲んでいる。
そかしその中のどれにも、目の前の人間を襲おうという気配は無い。
文遠は思い出したように膝を折り、横に並び立つ灰色の狼に触れた。

「…助かった。」

群れの首魁を勤める一際大きなその狼は、白い手に撫でられくぅと泣いた。
文遠はその獣をしばらく眺めた後、そっと彼の足跡に背を向けた。

「…帰ろう、奉先。」






雪が、降り始めていた。


















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