4.
元譲が目覚めたのは、翌日も日が中天を越えてからだった。
飛び起きると、既に脚も、その他山道で作った小さな怪我も医者によってきちんとした手当てが終えられており、
知らせを受けた孟徳がすぐに現れた。
文遠が…!と取り乱す元譲を数人で取り押さえ、布団に戻す。
落ち着いたところで一月もの間の説明を求めると、元譲は我に返って一礼してから手短に話し始めた。
丸一日近く経ってからではできることは無いのではないかと思いながらも、孟徳は十数人もの兵を動かしてくれた。
しかし、昨夜の風雪で足跡は絶え、狼が遠吠えのみならず姿まで見せたので彼らは成果を挙げられずに帰還しただけだった。
血痕や死体の見つからなかったことに幾許かの安堵は得たが、元譲は唇を噛み締めたまま強制的に安静を強いられ布団に
くくりつけられてどうすることもできなかった。
更に数日。
孟徳は何度目か、元譲の枕元を訪れた。
その表情は硬い。
「里の者全員に、山奥に住む者がいないかどうか聞いて周らせたぞ。
皆、口をそろえて知りません、と言うのだ。」
おりません、ではなくな。
言外にそう言っているのを悟って元譲は拳を握り締める。
「どういうことだ!?
たかが厭世生活を送る男一人のことだぞ!?
あいつは麓の村とは多少ながらも交流はあると言っていた!
知らぬはずがあるか!」
「…儂が知るか。」
唾を飛ばす元譲を孟徳が冷静な態度で落ち着かせようとする。
元譲は上半身を起こしていたが、走った足の痛みに腰を折る。
「…ならば探しに行かせればいい。」
息を荒げながら布団を握り締める。
その手は真っ白になっていた。
「冬の間は住み着いている頭の切れる狼の群れが飢えていて、奥まで行かれんのだそうだ。」
糞っ!と床を殴りつけた。
住み着いた狼の群れ、それはきっと自分の見たあれらだ。
より一層元譲の胸は焦燥と絶望に塗りつぶされていく。
「…元譲。
儂と共に城へ戻るぞ。」
「何!?」
「わかるだろう、もうこれ以上長く留守にするわけにはいかぬ。」
孟徳が城を留守にして実はもう半月近い。
辺境のこの地では政など充足に行えぬ。
「…では俺は残る。」
「ならん。
我が軍にお前の存在が無いことが他国に知られてどうなるか。
言って聞かせねばわからぬか?」
「孟徳!」
なおも食らい下がる部下を、孟徳は怒鳴りつけた。
「いい加減にせよ元譲!
自分の職責を忘れたのか!
確かに命を救われ一月も世話になったのだ、恩は感じておろう!
儂とて礼は言っても言い尽くせぬわ!」
言われ、元譲はうなだれる。
わかっているつもりだ。
全て思い出したのだから。
だが、あの男とあのようにして別れて、心安らかなわけが無い。
自分の身が裂かれるように気が気でなかった。
あの白き手足は。雪の化生のように美しき顔は、無事だろうか。
文遠。
こうして記憶を取り戻しても、淹れてくれた茶の味まで思い出せるというのに。
どうして夢幻などとと忘れられようか。
それでも、ここへ俺を捨て置いてくれ、お前の元から解放してくれとは言えなかった。
背負っているものは、自分の身ひとつ命ひとつではないのだ。
そして何より、違えることのできぬ我が主への忠誠。
「…ここへは、改めて人をやってその文遠なる男を捜させよう。
…それで、良いな?」
元譲は何も言えず無言で、小さく首肯した。
元譲はそれ以後、何も言わず元通りの生活に戻った。
国元の家人や親類は彼の帰還を泣いて喜び、彼は長く不在にしたことを詫びた。
誰にも何も言わず、ただ空白の時間を埋めるように主に尽くした。
北国でも雪が溶け始める頃、孟徳は約束通りあの村へ使者を送った。
既に、元譲の体のどこにもあの時の傷は無い。
城の庭には、桜が咲こうとしていた。
「言われた場所に人をやったぞ。」
使者たちは半月ほどで戻ってきた。
里の者は遂に協力しなかったので、結局兵のみで捜索したらしい。
兵にはくれぐれも脅迫などせぬようにと言いつけてあった。
「見つかったか!?」
元譲が孟徳に詰め寄る。
「小屋はな。
確かに人の住んでいた形跡はある。
だがお前の言う男は数日待っても現れなかったし、それらしき人影も誰も見ておらん。」
馬鹿な、と言おうとしたが声にならなかった。
小屋に、文遠はいなくなっている。
それはつまり、最悪の結果ではないか。
「ただ、使者が村に着いて二日目、宿の前に包みが置かれていたそうだ。」
言うと孟徳は背後に叩頭する使者に合図し、それを持ってこさせる。
思考の麻痺した元譲が何だろうかと考えるより早く、使者は現れる。
元譲はその場にくず折れた。
使者が抱えているのは、黒色の、己の甲冑。
耳にあの声が蘇る。
『必ずお届けに上がります。』
涙腺が緩むのを感じて元譲は片手で顔を覆った。
…生きていた。
元譲は、再びあの里へと戻ってきた。
天下統一とはまだ行かないが、孟徳は破格の速さで既に手にしていた東の地域からから京までを平定した。
つまり、京都以北は孟徳の下に統一された。
同時に片腕として元譲の名も列島中に広まっていた。
死を恐れず勇猛に戦い、兵を巧みに操り忠に厚く、武家とはかくあるべき、と。
噂など誇張して広まるもの、当人の耳にはこそばゆかったが、実績を鑑みればそれほど否定すべきものでもない。
元々評価に値する男であったが、冬に一月ほど行方をくらませて戻って後は特に働き目覚ましく、急ぐかのように主の覇道に尽くした。
何かに取り憑かれたようだ、と評する輩もある。
誰も知らぬだろう。
孟徳と元譲は一つの約束を交わしている。
国が落ち着けば、しばらく暇をくれると。
ただそれだけの。
この地に戻ってくるため元譲はできるだけの力を尽くした。
そうして、戦場を駆け抜け、やっと戻ってくることができた。
だがあの男はまだ自分を覚えていてくれるだろうか。
もう、油蝉が鳴いている。
元譲は宿に馬と荷物を預けると従者と宿の者が止めるのを聞かずにすぐに山へと入った。
一人で会いに行こうと思ったのだが、今度ばかりは再び遭難されてたまるかと孟徳の厳命を受けた従者がついて来る。
何より、元譲一人では道はわからなかった。
山中には道は無いが、春先に小屋を見つけたという者の手によってぽつぽつと木の枝に布が巻きつけられている。
だがそれも自然に解けたのか誰かが解いたのか、頻繁に結び付けられていたはずの布は次が簡単に見つけられないほどに
数が少なくなっていた。
春にもここに来ていた者が先導していなければ再びの遭難も容易に有り得ただろう。
春の時はどれだけ待ってもその小屋に住人が戻ってこなかったという。
今も彼がそこに住んでいるという確証はない。
駄目で元々という心構えで草木生い茂る山中を歩き続けた。
もしかして、本当にあれは全て夢であったのではないだろうかと、この山まで足を踏み入れて初めて疑った。
それほどに月日は流れ、記憶とは全てが違っていた。
あの時雪によって目隠しされていた色々なものが、今は鮮やかに存在を主張している。
覆い尽くすような白が、萌え盛る緑へと色を変えている。
その変化はまるで山の印象を変えていた。
記憶に残るあの幻想のような白い世界。
元譲が思い出せるのは、己とあの男しか存在しない、二人だけの静かな世界だった。
白く、冷たく、死に覆われた、無音の、二人だけの世界。
白銀の、怪しいまでに愛しい男…。
もしかしたら、あれは本当に、雪が見せた夢幻だったのか?
冷水を浴びせられたかのような衝撃が元譲の心を打つ。
ここまできて、今更何を。
笑い飛ばそうとして、上手く行かなかった。
それでも、歩みだけは止まらなかった。
半ば祈るような気持ちで、それを否定し、休みもとらずに歩き続けた。
立ち止まるのが怖いのだと、漠然と知っていた。
着物をじっとりと汗でぬらした頃、点々と巻きつけられていた布が、途絶えた。
代わりに、少し先に小屋が見えたのだ。
「…お前たちはここで待て。」
元譲は低い声で命じると、一人小屋へと歩み寄った。
情けなく震える指先を、無理矢理に握り締めながら。
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